ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈472.前提=なにゆえもがきいきるのか〉

iambe君がなにゆえもがきいきるのか(2)で残してくれたコメント。

それの返事を書いていたんだけど、どうも整理できていない的外れな文章になってしまった。これで書くのは三度目になる。今回はまともな文章になっていうことを祈る。

 

 

彼のコメントは非常に大事なポイントだ。

僕が示したクリアすべき課題を、仮に全てクリアしたら幸せになる法則が見つかると考えているのか。そういう疑問をぶつけてくれた。

そして彼は考えている。

幸せは刹那的であり、定常的ではない。と。

 

 

ここで思った。

あえて議論を深めるために僕は立場をちゃんと明確にしていくべきだった。

クリアすべき課題を5つほど示したが、そのどれも「〇〇と幸せには関係性があるかもしれない」というものだった。

 

いや、そりゃ関係性はあるわ。だって〇〇であげたそのすべてが人間の生きることに関わるわけだし、生きることと幸せであることは関係があるんだから。

 

 

そこでだ。

「〇〇と幸せには関係性があるかもしれない」ではなく、

「〇〇を⬜︎⬜︎したら幸せになる」そう言うことにした。

そうしないと「議論」は進まないもの。

 

 

そのうえでiambe君のコメントを振り返りますと、

僕は示した課題をクリアしたら幸せになる法則があるんだ!と主張したいわけじゃなくて、

①「幸せになる法則がある」という前提で課題をとりあげ、

②そのひとつひとつで僕の立場を明確にして、

③主張し、批判をもらい、

④ひとつひとつの課題の成否を確認し、

⑤ほかの課題の発見をし、

⑥すべての課題の成否を見届けたうえで、

⑦幸せになる法則の有無を確認する

という流れで考えていこうと思う。

 

僕は、世の中の無限にある現象ひとつひとつについて、幸せについての定義あるいは幸と不幸の境界を知りたい。

昔のハラミキの指摘でいえば、「十文字はすべての事柄に対して白黒つけたいと考えている」のかもしれない。

 

そもそもここに問題があるだろう!という人がいらっしゃるのも承知している。

そこにとりあえず目を瞑ってもらって、一つ一つの課題について成否を確認し、最終的に幸せの定義を考える、ということにしてもらえればありがたい。

 

iambe君がいうとおり、なにか僕は幸せについての理想がある、大指針があるのかもしれない。

僕はあえてそれを恐れながらも文字化していこうと思う。そしてそれを大いに批判してほしい。様々な意見が欲しい。そしてその理想とか大指針という妄言を打ち壊して欲しい。

そういう議論の進め方にしようと思う。

 

ただ、これはかなり労力が必要な議論なので「なにゆえもがきいきるのか」は毎日じゃなくて不定期発生の場にします。

そうして何年何十年後かに「なにゆえもがきいきるのか」の答えがあるんじゃないかと信じています。

 

 

まずは、仕事と幸せの関係について議論をしていこうと思う。

立場はまたそのときに書きましょう。

〈471.キミの始まりの日へ〉

じっくり考えていこうとしている、幸せとはなんなのか「なにゆえもがきいきるのか」。今日もちょっと後回しにさせてもらいます。

どうしても書いて残しておきたい話があって。

 

もしも過去にタイムスリップできるなら。

という話題であります。

 

 

というのも、このまえだいちと電話をしていて過去をどう捉えているかが話題になりました。

だいちは時々考えるそうです。"あの時ああしておけばどうなったかしら。後悔とかはないけども。"

対する僕はあんまり昔のことを考えなくなりました。

その電話だと"いまこうやってだいちと電話できてるのも、過去が過去であってくれるからさ☆"的なことを言いました。やっぱり僕はイケメン枠なので。

 

 

でもよく考えてみると、過去を考えなくなった、というよりも、考えるのがしんどいので諦めた、という表現が正しいと思いました。

なぜしんどいのかと言えば、急死した親友が必ず現れるからです。"僕の過去"という言葉には必ず彼が現れる。酷い後悔ですからね。

 

そこで、だいちみたいに"あの時こうしておけば"というのは考えなくなりました。考えたくないので。向き合うのがなかなか疲れるので。

 

でもその過去に支えられた現在が不幸かと言えばそうでもないです。むしろ幸せに生かせてもらってます。

それなら、その過去も不幸なものではなかったんじゃないか。彼が亡くなっていうのも違和感しかないけどそう思ってみました。

 

 

それなら、「タイムスリップできたとしてひとつだけ過去を変えられるとしたら」を大真面目に考えてみようと思います。

 

僕の人生で1番の後悔は間違いなく彼に対して正直になれず、天邪鬼的な態度を取り続けたことにある。

もしタイムスリップできるなら、間違いなく当時の僕をぶん殴ることにする。しかし、その後どうするかは結論がつけられずにいます。

 

ケース1

過去を変えたら現在とは別の世界線ができる場合

僕は間違いなく彼を助けるでしょう。彼と共に居酒屋に行きたい。彼と共にテニスがしたい。いまの世界線では不可能になった全てをしたい。ここに迷いは何一つありません。

 

ケース2

過去を変えたら現在も変わる場合

僕は一体どうするだろう。過去を変えたらたぶん僕の記憶も無くなるだろう。すなわち、彼の死以降の僕の行動が変わる。そしたら今の生活に戻ることはない。

 

 

 

 

 

なにを考えたいのかわからなくなってしまった。彼の死を受け入れようと悶えた5年間を僕はどうしたいのか。僕は彼の命と僕の今を天秤にかけるためにタイムスリップを考え始めたはずではないのに。

その5年間の間に得た幸せと彼の死の間にある関係性を僕はどうしたいんだ。

 

タイムスリップして得をする損をするのが僕だけなら判断に迷いはない。しかし。

 

その結果、僕は過去について諦めるという術を手に入れたんだった。

諦めて、そのまま受け入れることしかできない。それがもしかすると逃避を抱えているかもしれないのに。

 

 

過去という事実を変えることはできないけど、歴史という形で解釈を変えることはできる。

先生か誰かが言っていた言葉。

解釈を与えるには過去を学んで学んで学びきった時にようやくできることだと思う。だから向き合わなくちゃいけない。それが人間が伝えてきた能力だろう。

 

幸せを考えるためにも、過去としても、歴史としても、過ぎ去った時に向き合わなくちゃいけないんだよ。

タイムスリップを考えるってのはそういうことなんだね。

 

僕はまだ向き合う勇気がないからここで議論を辞めたい。もっと考える勇気を得たときのために今の弱さを残すべきなんだと思いました。

〈470.なにゆえもがきいきるのか(2.5)〉

"寝落ちしてしまった。なので翌日2回投稿ということでチャラにする。"

「なにゆえもがきいきるのか」についての考えておきたい追加の事柄について書いていたはずのところ寝てしまった。

その内容はこの書き出しについても言えることかもしれない。

 

「承認欲求」についてである。

 

 

承認欲求の正しい定義っちゅうのが見つからなかった。たぶん専門書とか論文で書かれているだろう。めんどくさいのでいくつかのネット記事をもとに、こういうふうに認識されているぞ承認欲求ってことではじめちゃう。

 

承認欲求とは、

他人に認められたいという社会的欲求。

〇〇という人間だと認められたい欲求。

マズローの欲求5段解説の4段階目にある欲求。

こういうことにしておきましょう。

まあこういう定義で外れてないでしょう。

 

 

ではなぜ今日これを扱うのか。

僕は承認欲求を敵として認識していたからです。こいつがいる限り僕は幸せになれない。そう思っていた。

そこで、ある意味自己肯定感とも幸せとも関わりある話だということで扱ってみよう。そういうことです。

 

 

僕は、承認欲求は非常に稚拙で愚かな欲求だと認識していた。というのも、僕をこういうふうに認識して!っていうのは非常にわがままに思えたので。

態度について他人を支配しようというのは赤ちゃんとか幼児が「よしよしして欲しいので甘えてみる」に近しいと思った。つまり、承認欲求は非大人的な欲求だと考えていた。

 

だが、どうやら僕の行動は至る所で承認欲求が溢れているらしい。

知ったかぶりなんてその典型例だろう。

〇〇も知ってる俺はすげぇぜ!なのか、

〇〇を知らない人間ではないのよ、っていう逃げ腰なのかはなんとも言えない。

どちらにせよ、常に「良し人間的承認欲求」も、「非悪し人間的な承認欲求」も常に発動していた。

これが発覚したのは大学3年の時に経験したインターンシップだ。そこで無能と思われたくないが故に嘘をつきまくっていたが、既にバレていた。

 

 

ということでそこから承認欲求クソ食らえ!っていう考えはますます僕を飲み込むようになり、つい一昨日くらいまでもはや承認欲求から目を背けることにしていた。

だが、一緒に呑んだ友人がはっきりと言ったことを忘れられない。

十文字「承認欲求ってあるもんなのかしら。」

友人「そりゃあるでしょう。絶対あるって。」

こうもあっさり認めるのか!あの愚かな欲求を!

 

ということで、仕方なし僕にも承認欲求が今でもしっかり残っていることを認めることにした。

非を認めることでしか人間は成長できないのだ!

そういうこと。

 

そこで考えるのが、承認欲求はなくすべきものなのか、はたまたあっていいものなのか、あるのが当然なのでどうやって利用するのか。ここらへん。

僕の中の「理想の大人」は他人にどう思われようが関係がなく、ただ自分が存在しそれをどう認識するのは他者の自由である、という自己肯定感MAXおよび脱承認欲求の領域である。

こんな大人がいるのかは置いといて、目指したいエリアではある。

 

 

議論したいけど、僕の中に議論する材料がないので、また議論の前提として今回のことを置いておくことにする。

今晩は「なにゆえもがきいきるのか」の幸せ議論を進めよう。

 

 

なんで今日の書き出しが承認欲求と関係あるか。自分が弱い人間だと思われたくないから、寝落ちした、ということを伝えることで「仕方ないね」という許しを得ようとしているんじゃないか。そう考えられるから。僕は弱い人間です。

〈469.ちょっとうれしいこと。〉

「なにゆえもがきいきるのか」は今日は休みにしましょうね。

友人と飲んで色々考えるべき材料をもらったこと、コメントをもらって考えるべき点ができたことを合わせると、時間が必要だ。

酔っ払った頭で文字化するにはもったいない内容だ。覚めたときに残ったものを丁寧に文字化していこう。

 

 

今日飲んだ友人は地元が近い奴だ。中学高校時代にテニスを通して知り合いになり、大学受験で同じ志望校だったので仲良くなった。

まあ、彼はちゃんと合格して僕は落ちたんだけどね。いまでも仲良くしてくれる変な人だ。

 

たまたま。彼は先日の自己肯定感についてを読もうとしてくれたらしい。ただ、仕事の疲れで寝落ちしたらしいが。

単純に興味を持ってくれたことが何よりも嬉しい。そしてそれを酔ったからかは知らないが、直接伝えてくれたのは何よりも嬉しい。

そういうふとした一言が今後何年も覚えているようなことはあるだろうな。

 

 

彼が自己肯定感についての文を読もうとしてくれたのは、やっぱり会社がなかなか大変だかららしい。僕と同い年、同学年なので社会人一年目なので荒波に揉まれているとのこと。そこでやっぱり肯定感は大きな問題らしい。

 

このホウチガだと、おそらく僕が考えていることをできる限りの努力をしつつも結局は僕の思考を文字化した結果を晒すに過ぎない。だからこそ、こうやって意見をくれるのは何よりもありがたい。

 

 

いまでも名前が残る哲学家は市民との会話の中で生きることについて考えを鍛えていった。そして同時に市民と一緒に考えていった。

実に羨ましい。ホウチガはそれをするにはもってこいの場所だ。コメントをしていただけたら絶対反応するし、一緒に考えていく上でのベースになる。ぜひともご意見をいただきたいところだ。

 

 

ただ、僕は哲学家ではない。研究者として専門に生きることを考える人でもなければ、仕事で幸せについて考えるような人でもない。ただの凡人に過ぎない。

いや、あえて勇気を持って文字にする。

だからこそ、凡人が一緒に考えていく場として、あるいは考える材料として「なにゆえもがきいきるのか」は利用できるんじゃないかとも思う。

 

 

だからこそ、いままでの投稿以上にコメントをいただきたい。そしてそれをみんなで考えてみたい。

 

幸せってなにか。生きるってどういうことか。みんなで考えてみたい。できればみんなで幸せになりたい。

〈468.なにゆえもがきいきるのか(2)〉

今日もまだ議論の本題には入れない。

本題が難しいので外から埋めていく作戦に出る。

 

 

「幸せ」に「生き」たい。(a)

「生きる」のには「金」がかかる。(a→b)

「金」を得るには「仕事」をする必要がある。(b→c)

「仕事」が「幸せ」なら「生きる」のも「幸せ」なんじゃないか。((c=幸)≦a)

 

昨日の前提はこれだった。

僕らの人生ですぐに向き合うことになる仕事。そしてその仕事が一日生きるうえで多くを占めることになる。その仕事が幸せであれば、人生の多くが幸せだと同義なんじゃないか。そういう議論をしていこうとしているんだ。

 

 

ちょっとここで置いておく議論をメモしておく。

①まず「金があれば幸せなのか」というところ。

昨日は生きるために金が必要だとした。けど、どれくらいあれば幸せなのか。そもそも金がなくても幸せにはなれるんじゃないか。そういう考えも僕の中にある。これを考えるうえでの素材として次の言葉もセットにしておく。

「お金じゃ愛は買えないけれど、お金があった方が愛が潤います。」高橋留美子さんの「めぞん一刻」という漫画のセリフらしい。漫画をまだ読んでないので前後関係がつかめないけど、忘れられない言葉です。めぞん一刻を読んだらこの議論をしてみましょう。

 

②ここでもう一つ議論すべき点が生まれてしまいました。「愛と幸せの関係性とは」これもまた別の機会にじっくり考えていこうと思うの。

 

③次に「仕事と人生は直結するのか」これも問題だ。

世の中には仕事をせずに生きる人もいる。そもそも仕事とはなにかという定義も必要だ。これは今回考えたい「仕事と幸せについて」の議論では前提として置いている。なので、この前提が崩壊、つまり「仕事と人生は直結しないし、幸せと仕事も関係ない」という結論に至ったら今回の議論は虚無に帰することにする。

でもいま就活しようとしている僕は「幸せと人生と仕事は何らかの関係性がある」と仮定して話を進めておこう。

 

④そして一番の課題「幸せとはなにか」「どの状態、どれのことを指して幸せとするか」つまり「幸せの定義」。これは永遠の課題かもしれない。幸せって人によって違うとかいうじゃない。

 

⑤これを考えるためにはこっちも考えなくちゃいけない。「幸せの必要性」。なんで幸せになる必要があるのか。理由なしに幸せが絶対真理だというのは、強大な悪が後ろにあるような気がする。ちゃんとそこんところ言葉にできたら「僕は幸せになりたい」といえるようになると感じる。いまは漠然と「幸せになりたい」と思うだけだが。

 

 

といういずれも大きな課題5つを置いといて、「仕事と幸せの関係性」を考えていこうというのだ。5つとも深く絡み合っていると思うから、仮に一つが明らかになっても別の課題を明らかにしようとしたらまた変わる、なんてことも起きるはずだ。

そうやって真実(仮にあるとして)ににじり寄っていこう。時間はまだまだあるはずだ。

 

 

そうだ。ひとつ言っておかなくちゃいけない。この話を進めていくうえで頼らないものが一つある。「神の力」だ。宗教に頼るところはなしでいこう。話の流れで言及することはあるけど、それを論拠にして展開しないようにしたい。人間の頭脳でどこまで迫れるのかを考えたいんだ。

とはいえ、どこから宗教でどこから非宗教なのかは明確に線引きできないのが現実だと思うんだけども。

 

ゆるくいこう。しょせん一般学生が考えるようなことだ。フィクションの一つとして、娯楽の一つとして考えてもらえればそれでいいや。

 

ということで明日から本題に入れるかしら。明日はわかんないや。未確定でいこう。

「仕事と幸せ」について。

〈467.なにゆえもがきいきるのか(1)〉

昨日の肯定感分析、あれで終わらせるつもりはない。

肯定感がどうか。そんなの今の僕にはどうでもいいことだ。いまの僕は自己肯定なんかできる要素持ち合わせてないんだから。

僕はその先が知りたくて考えてみたんだ。

「仕事は楽しいのか。」

いやもっと先の話かもしれない。

「人生はどうあるべきなのか。」

これを知るための手立てとして仕事と肯定感を考え始めたんだと思う。

 

 

いま、僕が生きるためには衣食住、そのすべてに金がかかる。

服をゼロからつくるひとは見たことがない。食は頑張れば自給自足できるかもしれないが、その道を選ぶ必要がない。生きて住んでいるだけで税金が取られる。

ただ生きるだけでも金はかかる。

 

金を得るためにはなんの手段があるのか。

起業、就職、プロフェッショナル、不動産やりくり、株やりくり…。

色々ある。

いずれにせよ、なにもせずに金が入ってくるわけじゃあない。生きてる時間を削って金を得るのだ。

仮に時給1000円なら人生の1時間を1000円に代えているに等しい。もちろん、その仕事で得たスキルは金とは違う価値になるけども。

 

とりあえず、金を得るために人生を等価交換として削っていると考えてみよう。

 

 

他のことにも言える。漫画を読む時間、ゲームをする時間、トイレに行く時間、勉強する時間などなど。

「ただ生きる」ということを供物に捧げて「意味」を得ている。

 

そこでだ。

どうせ生きるなら意味をもって生きたいし、どうせなら楽しいほうがいいと思う。なんで楽しい方がいいのか。幸せだからね。じゃあ幸せなのはなんでいいのか。しらねぇ!ここから先は哲学家に任せる!

とりあえず幸せに生きたいんだ!幸せになりたいんだ!

 

でも、「幸せ」に「生きる」のうち、「生きる」にはとにかく金がかかる。

それなら金を得る行為も楽しいとかに幸せのほうがいい。それなら終わりまでギッシリ幸せだからな。

 

 

ということで、金を得る行為を幸せに行えたら人生ハッピーじゃないかと思う。

金を得る過程ってたくさんあるけど、そのうちとりあえず「仕事」としよう。

 

「仕事を幸せにできるのか。」

 

ここだ。僕が斬り込みたいのはここだ。

これを無事、「仕事で幸せになれる、そして人生も幸せなうちに終わらせられる」となったら嬉しい。

 

 

この話を進める上で二つの話をベースにする。

・仕事は楽しいもんじゃない。楽しいものは仕事にはできない。楽しいものは趣味で終わらせるべき。

・好きなことで、生きていく。

 

1個目は僕が好きな作家さんがTwitterかなんかで言ってたと思う。

2個目はみなさんご存知YouTubeでござんす。

 

キーワードは

仕事・趣味・楽しい・楽しくない(辛い)

この四つだ。

 

 

今日はここで終わらせる。昨日張り切りすぎて今日の生活に影響が出た。なので今回は複数回に分けて考えていこう。

今日は考えるための前提でおわり。

 

「なにゆえもがきいきるのか。」

〈466.あなたに捧げる肯定感分析〉

さて。今日はちょっと難しい話だ。

死後の世界の話をするくらい難しくて、それでいてワクワクする。

 

キーワードはこの二つだ。

  ・ハードワーク

  ・自己肯定感

 

そして展開はこうだ。

  0.はじめに

  1.メンタルが崩れるまで

  2.お手軽肯定感の正体

  3.適切な肯定感を求めて

  4.マトメ

 

これでいくぞ。よし。頑張るぞ。

今日は長くなるかんな。覚悟しとけ。

 

。。

 

《0.はじめに》

 

なんでこんな話をはじめるのか。そこからいこう。

 

僕と親しくしてくれる人がいる。その人はなかなかのハードワーカーで僕とは正反対だ。その人を見て僕は休め休めと言う。しかし、その人は"休むべきだとは思うが…なぁ…"、という感じだ。

ホウチガメンバーの岡島みっきーなんかもそんな感じだ。岡島もよく、忙しくしてないとヤダとか言ってバイトと研究とで、僕みたいにふらふら散歩する時間をケチっている。

 

そこでだ。

なにが不健全なハードワークなのか、考えてみようじゃないかと思う。

今回したいのは、過労死問題とかそういう難しい話じゃなくて「ハードワーク」と「自己肯定感」はどういう関係にあるのかを考えてみようということだ。

 

 

さらに前置きになるが、こちらの文章を読んでいただきたい。

 

「ご自愛する」という戦い方|Tsukioka Airi|note

 

Tsukioka Airiさんの『「ご自愛する」という戦い方』という文章だ。

無礼承知で要約させていただく。

 

Tsukiokaさんは働きすぎで2ヶ月会社を休むことになった。その期間に働きすぎた時代のことを振り返り『ハードワークや深夜残業によって得られる自己肯定感は麻薬だ。「頑張ってる感」がお手軽に得られてしまう。』という考えに至った。

そして元気に生きるためには健康だとしている。しかし『「ご自愛する暮らし」はゆるふわスローライフではなく、強い精神力とマネジメント力を要する戦いである。』とも考えていらっしゃる。

 

もっと掘り下げてある点もたくさんあり、非常に面白い文章なのでぜひ読んでいただきたい。こちらを読んだ上で考えてみたい。

 

。。

 

《1.メンタルが崩れるまで》

 

ハードワークでメンタルがダメになるのはどうしてか。そのメカニズムからフワッと考え始めてみる。

 

仕事のしはじめは楽しい。

知らないことをどんどん知ることができるし、褒められたりお礼してもらえたりする。他の人のがんばりをみて、もっとやろうとか、俺もがんばってんな、そう思える。

 

それがだんだん慣れてくると、褒められるとかお礼を言われるは少なくなる。だって仕事だもの。やって当然、むしろ前提になってくる。

すると「お手軽肯定感」のみが救いとなってくる。

やってるから許される。やってるんだから僕はがんばってる。

そういう気分だ。

 

『簡単ブラック化!』はこういうこととしておきましょう。

 

。。

 

《2.お手軽肯定感の正体》

 

さて。ハードワークでメンタルが崩れるまでの流れはわかった。色々肯定感を得られていたのが「お手軽肯定感」のみに頼ると崩れる。

ここで問題なのが、「お手軽肯定感追求」の中身だ。

 

あいや待たれい。そもそも「肯定感」ってなんだったか。ふわふわしたまま使いがちだな?

文部科学省の「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育の実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上(第十次提言)」というめちゃ長い提言書だと、

 

"勉強やスポーツ等を通じて他者と競い合うなど、自らの力の向上に向けて努力することで得られる達成感や他者からの評価等を通じて育まれる自己肯定感と、自らのアイデンティティに目を向け、自分の長所のみならず短所を含めた自分らしさや個性を冷静に受け止めることで身に付けられる自己肯定感の二つの側面から捉えることが考えられます。"(15ページ目4段落)

 

としている。

つまり肯定感は、

1.努力で得られる達成感や他者評価の自己肯定感(→客観的肯定感)

2.自分らしさや個性を受け止めて得られる自己肯定感(→主観的肯定感)

の二つあるということだ。

 

なるほど、お手軽肯定感は先ほどの定義で言うと1のほうである。お仕事して、他の人と比べて自分はどうだ?そうやって得るのがお手軽肯定感だったと思う。

 

では、これはすべて悪なのか。そうと決めつけきれないところもある。なぜなら、適切な競争や評価は自己肯定感を育んでくれる。お手軽肯定感はそれが「適切でなくなった時」に問題になるだけだ。 

 

では「適切でなくなった時」とはいつだろう。これがわかったらたぶんブラック化を回避できるだろう。そして今回の議題の終着点もここになる。

しかしながら、これは研究書でもなければ文庫本でもない、ただのブログでありエッセイみたいなもんだ。ここからふわふわしだすのも勘弁してくださいな。

 

。。

 

《3.適切な肯定感を求めて》

 

「適切でない」のを「お手軽肯定感のみで自己肯定感を賄っている状態」だと考える。

逆を言えば、「適切である」のは「お手軽肯定感以外でも自己肯定できている状態」である。つまり、上の定義の1の客観的肯定感だけでなく、2の主観的肯定感も得ている状態だ。

 

〈客観的肯定感とは〉

客観的肯定感は、社会的肯定感とも言えると思う。自分以外の誰かとの比較や評価は社会的動物として得ることができる肯定感だ。逆に言えば、人間として生きている限り、間違いなく社会的肯定感との距離感を推し量りながら生きていかなければならない。

仮に引きこもったとしよう。それでも人間として生を受けてしまったら、「本来なら仕事しなくちゃいけないのに…」というように、社会的肯定感は削られる。

つまり多かれ少なかれ、客観的自己肯定感は誰しも関係しているのだ。

 

お手軽肯定感の正体は、この客観的肯定感のうち、会社での自己比較とか他者からの評価で満たされた肯定感だ。会社での頑張りってそういうものだもの。

 

〈主観的肯定感とは〉

しかしだ。主観的肯定感はどうだろう。自分らしさを受けとめて得られる自己肯定感。

なかなか得るタイミングがないぞ。

比較なし。競争なし。そんな環境なかなか作れない。というか存在するのか怪しい。比較しなけりゃそもそも長所か短所かもわからないからな。つまり、比較有りだけど、比較の結果よりも比較して得た情報に意味があるということだ。

「尺度を自分で決めた上で、比較して得る肯定感」そう定義し直す。

尺度を自分で決める、の例を示す。

幸せか?の尺度を、「お金のあるなし」に注目すればコンビニアルバイターは幸せじゃない。しかし「自由時間のあるなし」に注目すれば超幸せだ。

尺度を自分で決めるっていうのはそういうことだ。

 

〈過激な肯定感〉

自分が肯定できるかどうか。

つまり、自分が生きててヨシとするか否か。

 

これを社会の尺度のみで測るとなかなか大変だ。社会でヨシとされるのものは刻々と変わるし、なにより社会ってなんだっていう問題にも突き当たる。少人数が言い出したものがいつのまにか当たり前になってたり、迷信が真実に変わりうる世の中だ。

その世の中に自分の生の尺度を当てはめて得られるのは、社会(全体ではなくあくまで自分の身の回り、類は友を呼ぶ社会)に適応できているか否かの結果である。

自分が生きててヨシとするのは適応できているからなのか。

 

ではこれを自分の尺度で生きててヨシ、と決めたとしよう。

街中で野糞をしてもそれは土の栄養になるからいいのだ。超過激な土大好き人間になったらそうなり得る。土の良し悪しが尺度であり、他はどうでもいいのだ。

いや、自分は幸せかもわかりませんが、それはちょっと人間として生きるのを辞めていらっしゃるとしか思えませんね…。そういう感じです。「ワガママ」。そういうこと。

 

〈適切な肯定感〉

つまり、良き人間として生きるためには、客観的肯定感も主観的肯定感も両立する必要があると僕なんかは思います。どっちかに偏るとなかなか大変な人生になるんじゃなかろうか。

 

ハードワークを始めると、どうしても時間がないから主観的肯定感を得るタイミングを失うんじゃないかしら。だから仕事しながら得られる客観的肯定感、お手軽肯定感に依存することになる。すると、自己肯定感が不健全になって病む。そもそもハードワークっていうことがかなり狭い世界に閉じこもりがちだから、他の客観的肯定感も得にくいよ。なによりも主観的肯定感が足りてないよ!

 

 

なので、Tsukiokaさんは大変だけどマネジメントして健康を保つことが必要だという考えに至ったんじゃないかと思う。

これは「自分の健康を保つ=主観的肯定感"健康"の尺度を持つ」っていうことだと僕は解釈したことによります。

自分の健康を保つって、自分を大事にするっていうことの根本的なところだからね。これは最もな主観的肯定感だと思います。

でもこれが難しい。ともすれば社会に委ねてしまうからね。そして、ともすればワガママになるからね。

 

『「ご自愛する暮らし」はゆるふわスローライフではなく、強い精神力とマネジメント力を要する戦いである。』

そういうことだ。

 

。。

 

《4.マトメ》

・自己肯定感は客観的肯定感と主観的肯定感がある。

・客観的肯定感に偏った状態がお手軽肯定感追求。

・主観的肯定感に偏るとワガママなだけ。

・ハードワークしつつも、ちゃんと自分の尺度で主観的肯定感を確保すると病まない。

・「自分の健康を保つ」は一番の主観的肯定感なのでは。難しいけども。

 

。。。

 

ということでおわり。

あくまで僕が勝手に考えたものなので、アカデミックなものじゃないです。探せばちゃんと分析されてるだろうから、ちゃんとしたのはそこから探しましょう。

 

ハードワークはしていいと思うわよ。してもいいけど、自分が大事なところは見つめ続けるべきだとあたいは思うわけ。

自分の尺度はどうやって見つけるか?なにが幸せか考えなはれ。とりあえず健康第一でええやん。