ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈832.鬼滅について〉

1月7日。

 

鬼滅の刃の最終巻を読み終えた。例に漏れず、僕もえらく感動した。映画で扱っている無限列車編以降が特に気に入っておりまして、最終巻のあの感じはもうとんでもなく好きでした。

ということで今日は鬼滅の話をしましょう。ネタバレとかあんまりないけど、気にする人は気にしてください。

 

 

物語のテーマがなにより気に入っておりまして。極端に言えば、命を粗末にしているのが醍醐味なのです。

同時期の人気作である約束のネバーランドが厳しい環境の中でも全ての命を救い信じることがテーマだったのに対し、鬼滅の刃は厳しい環境の中でどこかの誰かの或いは未来のために自分の命を犠牲にするというものだと僕は解釈しました。

 

どちらも優劣ないくらい好きな作品ですが、丁寧に扱われているキャラクターが散っていく鬼滅はなんだか慣れてなくてとんでもなく面白く感じる次第です。そして散るからこそに美しい。そういった意味でジャンプシステムでありながら、ジャンプっぽくない良い話だと思っています。

こういうのを文学部であれば、古典とか文豪の話と合わせて分析することができるんでしょうな。

 

 

そんなテーマの中心に「どう生きるか」があるのが鬼滅であり約ネバだと思います。鬼滅は平和のために死んでもよし、約ネバは平和のために全員生きる。

そしてどちらも、自分と誰かの関係が生きることと深く関わっている。鬼滅は大切な人を守るために自分が死んでもよし、そして敵は絶対許さない。約ネバは大切な人のために自分も死なない、敵とも共生する。

対人関係と敵対関係の四象限がある気がします。その前提に自分の存在の軽重がある。

 

いわゆるジャンプ漫画はそんなに重い話はないのでこの四象限には当てはまらないし、基本漫画はそんなに当てはまんないような気がしてました。ところがいまの世の中の雰囲気にハマったんでしょうか、自分や相手の命の重さが天秤にかけられているような、そんな気がしております。

そんな社会がどんな社会なのかを解き明かしてみたいんですがね、ほかに売れてる作品を読む必要がありそう。チェンソーマンや呪術廻戦は読んでいるけども、まだ核心には至ったないのでテーマがどこにあるのか気になるところ。

 

 

しかしながら、タンジローにせよエマにせよ、もしも地球でただひとりになってしまったらどうするんだろう。つまり命の天秤が機能しないなかでは主人公はどうなるんだろうか。悟空だったらひたすら自分が強くなることを目指してそうだし、ゴンもそれでも自分の親父を探しているような気がする。

それだけ人との関係性が大事にされているのがこの二作品だと思うんだよ。

 

 

ポストモダンについて勉強していると、脱分化がポストモダンの特徴だとか言われる。つまり階層とかプロフェッショナルとかのモダン社会に至るまでに作られてきた縦と横の差異が曖昧になってくるとかなんとか。アウラの消失、なんて有名な話ですが。

その一方で「大衆」への拒絶として個性が尊ばれるのも特徴だとか。

 

単純でわかりやすかったものへの反逆であり、個の尊重がポストモダンの特徴とか。その中で最近は縦や横との繋がりが見直されているということかしら。

ある種、手に入らなくなったものを求めてるんだろうか。文化は理想の追求ってことなのかい?

 

 

戦闘力272日目

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勉強+1

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ダークヒーローなんてのはまさにその一つかもしれないな。規律への反逆。しかし、英雄ではありたいぞ、なんていう感じの。

勉強が必要ですな。

〈831.情報の体系化について〉

1月6日。

 

今年はとにかく情報をたくさん貯蓄しようと考えてあるわけです。貯蓄がなけりゃあなにも出力にまわせませんからな。

しかし、人間の貯蓄は物体にしなくてもできてしまうわけです。それがひとつ良さでもあり、逆に悪いところでもあると思った次第です。

 

 

例えばテニスについて貯蓄しようとしましょう。

大きく二つの貯蓄先があります。プレイヤーとしての貯蓄とコーチとしての貯蓄。

プレイヤーとしての貯蓄のためにはなによりもまず体を作ることが必要なのはわかるでしょう。トレーニングであり練習であり、メンタル強化なんかもそれでしょう。これは物体化できない貯蓄です。

コーチとしての貯蓄はやはり戦略でしょう。いろんな試合を分析してみたり、体の作りを勉強して効率的なパワーショットの打ち方を考えてみたり。これもまた脳味噌に詰め込むので貯蓄しないものでしょう。

 

プレイヤーとしての貯蓄が直接的に筋肉に響くものでコーチとしての貯蓄は脳みそに記憶として残すものでした。それをどうやって出力にまわすかというと、プレイヤーは実際に試合の中で体を動かして出力される。コーチはプレイヤーに伝える言葉として出力される。

この二つの非物体的な貯蓄→出力は、貯蓄したものを体系化して形にするという意味で付加価値が与えられるんだねぇ。それがひとつのオリジナリティになるわけだ。

世界史の年号はだれでも同じものだけど、それらが3つ組み合わさった時の解釈は人によって変わってくるような関係と同じ。

これが非物体の貯蓄の良さだ。

 

 

5年後にプレイヤーがコーチに質問したとしよう。

5年前と僕はどれくらい変わってきましたかね。

この時、貯蓄をもとにコーチは解答を考えるわけだけど、その時その時の貯蓄を形にしてこないと記憶は更新され続けるものなので「今からの解釈」しか伝えられない。悪くはないけど、昔になればなるほど曖昧で当時の意味合いが薄れてくる。

 

これが非物体の悪いところ。そのまま再現はできない。

簡単な話、全国レベルの選手に市大会レベルのプレーをしてというのはとても難しいわけで。というのは体を用いた出力のレベル調整はほぼ不可能なのだと思うからです。わざとミスすることができても、そこにはやっぱりわざとらしさが出てくる。

 

 

そういうことで、言葉とか思考については文字に残すことがとんでもなく大事だと思うわけです。

もちろん、文字に残さなくても「今からの解釈」だけが必要であれば文字にいちいち残さなくてもいいでしょう。趣味なんていうのはそういうもんだ。

しかし、知識を体系化するためにはやはり文字に残してみるのがとても効率的なんですな。記号を通して、物理的に関係性がわかってくるからね。

 

そういうことで、今年は貯蓄した情報をきちんとノートにつけていこうと思ったわけです。文字にするのは得意だからね。

 

 

戦闘力271日目

1695(+7)

勉強+2

その他+5

 

そして集めた情報をもとに、きちんと出力する。文字として体系化されていると自信が出てくるからね。

〈830.ビジネスを考えよう〉

1月5日。

 

カフェで作業する時間が多くなっている。この時期だと間に透明な板が噛ませられてたり、ソーシャルディスタンスなんかで密をさけたりとかでカフェ側も一生懸命である。

しかし人間は増えることがいまはなくても、あんまり減るような感じはしてないわね。それくらい公共の場での作業ってのは必要な行動な人が多いってことなんだな。

 

 

無料で作業できる公共の場所があったら嬉しいわけです。例えば公園とかね。しかし公園には電源もないし、雨風を凌げる場所もない。ある程度整った施設となるとやっぱりある程度金がかかるのは仕方ない。となるとカフェってのはもってこいだ。飲み物っていう実益を得ながらも電気と雨風凌げる環境を占領できる。なんともありがたいもんだ。

しかし、なんでカフェなんだろうな。ほかのものじゃなくてさ。

 

 

いやなんて説明したらいいんだろうな。机と椅子、電源は必須であるとしておいて、ほかのサービスじゃなくていいのか。

例えばマッサージチェアとか。ネカフェ的な感じなやつはある。でもそうなるとやたら割高だもんなぁ。そしたらカフェに行くわな。つまり500円前後がちょっどいいわけだ。そして、作業が主な目的であって、それを邪魔しない程度のサービス。

 

人間が関わってくるのはダメだぞ。メイドカフェとかは人件費がバカにならないからな。となると、モノのサービスあるいはデジタルなサービス。

モノのサービスだと世の中に溢れるからダメだな。ネカフェとか普通のカフェとかで十分だ。

そしたらデジタルななにかを得られる机と椅子があるスペース。

 

 

カラオケ的な個室はどうだ。椅子に座ればどんな曲でも流せるみたいな。いやそれはもうスマホで十分。

じゃあゲームみたいな感じで、利用した時間の分だけゲーム内通貨がもらえるやつとか。スマホと連動させることでゲームも楽しめるぞ。そしたら作業目的なしに利用する人が出てくるかもしれないな。なしではないけどありでもない。

 

こう考えると、いまのカフェシステムってうまいこと成り立ってんのな。別にカフェで不満なこともないし、唯一金銭面だけだし。そしたらやっぱり会員制のコワーキングスペースがあるのも理解できるな。

 

 

なかなか新しいビジネスモデルを考えるのも難しいですな。学部の時にそういう感じの授業とかあったけど、難しいもん。

でも楽しいのよな。〇〇×〇〇とか無理矢理繋げてみたら面白いとか、コンテンツ作りの基本だったりするんでしょう?

 

ビジコンとか今度見てみようかしら。

 

 

戦闘力270日目

1688(+5)

勉強+3

その他+2

 

イデア考えるのは楽しいよな。実用性は置いといて。

〈829.たいあたりする意味〉

1月4日。

 

昔、親の言うことを素直に聞かずにやってみて、親の言う通りの間違いを犯したことが一度や二度じゃなくてあった。そのたびに「言う通りにしときゃあこんな思いしなかったのに」なんて言われたわけだ。これは思い出しても仕方ないだろうと思う。

結局頭で理解していても、体験してみなきゃわかんねぇなって話。

 

 

就職活動をしている友人はよく「お祈りメール」のことを話していた。いわゆる落選メールといえばいいのだろうか、内定は無理ですよーっていう通知メールのことだ。こういうメールの最後には大抵、これからのご活躍をお祈りしております、なんて書かれているからお祈りメールなんて言われてたりする。

それを2年前3年前から聞かされていたから、まあそういう会社とは合わなかっただけだから気にしない方がよかろう、そう思って適当に流していた。

 

しかし、インターンやら説明会やらでそれに似たメールを受け取る身分になった。するとお祈りメールを受け取るときの気持ちがわかってきた。

そういうメールでは大抵なんで落選したのか理由は書かれないし、聞かないでくださいねっていう文言が書かれてたりする。つまり、好きです付き合ってください!に対して、いやちょっと無理です、と言われるような気分だ。

ぼんやりとこれが悪かったのかアレが悪かったのかと考えるけども、答えは得られない。自分で考えるということだ。

しかもそういう会社には再チャレンジが大抵の場合できない。ちょっと無理、じゃなくてお前は私の前から消えてくれ、そう言われているような気分。

僕はまだ受け取った数が多くないからいいけども、試しに10件連続でそういうメールを受け取ってみろよ、自己否定されているような気分になってくるだろう。お前は必要なし。キツイぜぇ。

 

 

しかしながらそういう身分を味わったからこそ、語るときのリアリティが出てくる。絶望や希望は体験しないと不可能だ。よく漫画家とか小説家は実体験したことしか書けないとか言われるけども、それに似た体験があるってことだと思う。

そうじゃなくて想像での産物に過ぎなかったら、薄っぺらい話にすぎない。心が激しく悶える経験があって初めて動かず力が出てくる。

 

そういった意味では、事前に予測された上でそろそろと歩くのはもったいない。死なない程度に起き上がれる程度に傷つき、怪我した方が人としての器が大きく頑丈になるってもんよ。

目先の失敗ではなく、人間としての失敗を恐れるべきなんだろう。

 

人は体験しなくても知ることができる。ただ、知っていることとできることは違うわけでして。頭でっかちにならないようにっていうのはこういう意味だったんだね。

 

 

戦闘力269日目

1683(+5)

勉強+2

その他+3

 

今年はたいあたりで勉強していこう。がんばれ。

〈828.三ヶ日〉

1月3日。

 

明日から日常に戻る。2021年という慣れない文字列と丑年を徐々に気にしなくなってくる。年始の特番も無くなってきて、徐々に普通のニュース番組、バラエティ、情報番組になってくる。

さみしいけどもいつまでもイベント気分でいたら次のイベントのありがたみがなくなるものね。さっさと切り替えて日常に溶け込むことですよ。

 

 

しかし、なんで3日なんだろうな。別に1週間でもよかろうし、あるいは2日間とか4日間とかいろんな選択肢があったろうに。昔の偉い人は3が良かったんだな。

例えば、悲しいことが起こったら3日で切り替えられるわけがない。やっぱり1週間くらいはぼーっとしてたいものよ。逆にとんでもなく嬉しいことがあったらどうだろう。誰かに伝えたいっていう意味では休みなんかなしでもいいけど、仕事に集中できるかっていうとそうでもない。1週間はいらないけど多少休みをもらって、親族とかに喜びを分かち合いたいものではあるかもしれないな。自分自身のこれまでを褒め称えてあげる意味でも休みは欲しいかもね。

 

 

お正月休みって、どういう意味があったんだろう。一つの区切りをもらうことで、モチベーションを回復することだろうか。一年よく生き残りましたねっていう一種の労いだろうか。

そういった意味では3日間ってのはちょうどいいかもしれない。去年のふりかえってみて、身の回りを整理して、一年の準備をする。もともとの意味はどうとか、今を生きてる我々にはあんまり意味がないことだけど、三ヶ日っていうのもなにかしら意味があることなんだろうな。

 

 

友達とか知り合いはTwitterとかで3日は短すぎると嘆いて会社に向かう準備をしている。僕は研究しかすることがないので、年中正月みたいなもんだからそんなに悲しいわけでもないんだけど、仕事っていう大変なことに向かっている時は3日は短いと思うものなのかしら。

逆に何日間正月休みがあると満足できるかな。義務教育の夏休みみたいに1ヶ月かしら。いやさすがに長過ぎませんかね。なにかしようと思ったら1ヶ月くらいはほしいけども、そんなでもないな。

1-2週間かしら。いやぁ、1-2週間って何にもできないよ?旅行できるかもしれないけど、結局ばたばたしてると家に帰ってきてまた休みたーいって思うし。

 

リズムを崩さないように適度に休むっていう意味では3日くらいがちょうどいいのかもしれないと思ったりもする。

1年後2年後にも同じことが言えるかしら。仕事始めたら休みたいと思うものなのだろうか。

 

とにかく頑張りましょう。私はカフェで論文頑張りますので。

 

 

戦闘力268日目

1678(+3)

その他+3

 

現実逃避してもつらいだけだからね。頑張るしかないね。適度に休みながらちょっとずつね。

〈827.犬のこと〉

1月2日。

 

実家にいる犬の話。

柴犬と黒の雑種がいる。二匹はそれほど仲がいいというわけではないけども、特別悪いわけでもない。食欲が異常な黒のほうに柴犬のほうが圧倒されて、柴犬が飯を奪われるくらい。あとはお互い不干渉って感じだ。

そんな二匹も今年で13,14歳くらいかな。もうおじいちゃんとおばあちゃんになってしまった。もともと丸々としていた黒い方も標準体重くらいになって、柴犬の方はもうまっすぐ歩くことができなくなっている。悲しいかな、そろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれない。

 

 

柴犬は僕が小学生の時にきた。3年生くらいだったかな。家にドロボーが入ったことから飼い始めたから番犬として仕事をしてもらっていた。知らない人がくるとよく吠えてくれる良いオスだった。それがもうおじいちゃんで目もよく見えてないだろうし、走ることはほとんどない。

やってきた赤ちゃんの頃から知ってて、それが老いてやがて天に召されるだろう。命の短さを痛感する。こいつは果たして幸せだったろうか。もっと広い庭で走り回っていたかっただろうか。室内犬としてぬくぬくと生活してもらった方が良かっただろうか。

本当のところは本人にしかわからないから僕らが何を考えたところでなんにもならないけど、考えてしまうことがふとあるわけです。

 

 

おそらく長くても2-3年だろう。僕の心の中にはずっと居続けるだろうし、名前を忘れることもないだろう。ただ、こいつがいた記憶はたぶん家族くらいしか覚えていないんだろうな。

勝手に決めつけるなと柴に怒られるかもしれないけど、それでいいんだろうな。有名かどうかとかそういうのではなく、こいつがこいつなりの人生を納得して生きてこれたかどうかなんだろうな。

人間はそれぞれの役割を与えられて、短い舞台演技を終えたら速やかに舞台からはけていく。そういうもんだと誰かが言っていた。その役割はもしかしたら主人公的な大役かもしれないし、背景にある木かもしれない。

価値の上下はあるかもしれない。でも、その価値っていうのは誰かが勝手に決めるものでもあり、自分で決めることもできる。

 

我が家の二匹の犬は番犬という役割を負って、今も現役で守護神として守ってくれている。こいつらがいてくれるから、何も考えずに家を空けて家族は仕事に行ける。話し相手になってくれたり、もこもこの体を楽しませてくれたりもする。

そしてこいつらは自分の役について文句を言うことがない。飯がないとか散歩に連れて行けとかそういう主張はするけども脱走することは今はない。

 

 

なにかを得るために足掻くこともひとつだし、今あるものを大切にすることもまたひとつである。そこにある価値ってのは誰かにとっては愚かなものかもしれないけど、絶対評価はできない相対的なものである。

そもそも価値とかっていう概念は勝手に人間が作り出した虚構に過ぎないとも考えられる。

 

自分の評価で自分を見定めて、相手の評価で相手を見定める。それをできるように今年は心がけたいものですな。

 

 

戦闘力267日目

1675(+4)

運動+2

その他+2

 

犬が何考えてるのかよくわからない。動物っていうのはそういうもんなんだろうな。人間も言葉があるから通じてるような気がしてるけど、実際はどこまで通じているかは怪しい。

だからこそ、わかんないけどどこかでちょっと繋がりがあるのを感じるととんでもなく嬉しくなる。

ありがとう我が家の守衛さん。相変わらずこっちを見つめるだけなんだけども。

〈826.いつもどおり〉

1月1日。

 

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

2021年がはじまりまって初の投稿になる。こりゃあ気を引き締めなけりゃいけないと思うんだけどもね。

これまでの人生で初めてってくらい、新年の感じがしない。ひとつはやはり初詣を自粛したことがあるだろうな。大勢並ぶところでようやくお賽銭投げ込んで挨拶をする。

それを今年は近所のお寺で済ませた。しかも夜。だれもいないから僕だけの初詣みたいな感じだけども。

 

 

それもあって、これを書いている元日の夜にはもういつもの通りの日常になってしまった。ありがたみもなければ昨日と何も変わらない日々。しかしせっかく新年っていう節目なんだからなにか目標とかを立てた方がよろしかろう。

去年一年をふりかえってみて、ちょっと反省をしてみる。一年前に立てた目標は予定通り社会が動く見通しでの目標だった。大きく変わったもんだよね。

それを踏まえて今年はどうしようか。まだ立てられてないのです。特に個人的にも明確に目標を定めるのが難しい年になると思われるので、なかなか簡単に目標をさだめられない。

一年の計は元旦にありというけども、太陽も沈んで2日になってしまった。まだ三ヶ日はまだ正月だし平気でしょう。

明日にはきちんと目標を明確にしましょうね。

 

 

とまあ、がっちり正月やな!みたいな年明けではなかった。これまでの延長に過ぎない、ただの1日だ。こういう積み重ねでいつのまにか一年たっちまうんだろうな。

ただ、モチベーションのためにもきちんと節目節目は振り返って反省して計画立て直すことはした方がいいね。

 

ただの1日、されど1日。一円をバカにする人は一円に泣かされるというけども、1日をバカにしちゃいけねぇんだろうな。予定帳にかかれた1日1日を見直すと投げ捨てたような1日が積み重なってとんでもない時間になってしまっていると気付かされる。

 

今年はちゃんと生きようね。

 

 

戦闘力266日目

1671(+8)

運動+5

その他+3

 

年が明ければなにか新しい自分になれると思っていた。気がつけば新年の1日目が終わっていた。そんなもんなんだ。

いつでも新年気分で無駄にしちゃいけねぇよ?