〈923.薄切りチョコ〉
4月8日。
楽しいことを考えよう。楽しいことなにがあったかしら。最近気に入っているチョコの話をしよう。
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チョコと聞けば、板チョコだったりチロルチョコだったりアポロチョコだったりを想像するだろう。
気に入ってるものはちょっとお高い貰い物である。そういう四角い形じゃない。いわゆるポテチチョコみたいな薄い平べったいチョコ。しかし、塩もなくいわゆるチョコ。お上品なやつ。
貰いもんだから、どこで買ったのかわからない。成分表示に日本語が書いてなくて英語とヨーロッパ系の言語があるのみ。
買いたいけどよくわからない。なので説明しようがないけど、味もいいけど薄っぺらいだけでもうまい。
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チョコ=四角い固形っていうのに外れたものだったので、最初はなんやねんって批判的だった。せっかくならポテチのチョココーティングにしてくれやと。
しかしながら食ったらうまい。硬いチョコが薄くなると歯にこびりつくことがないので楽だし、食感も新しくて面白い。すっかりハマってしまった。
いわゆる食わず嫌いなものであって、思い込みをひょんなことからぶち壊してくれるとなんとも新しい発見ができて楽しい。
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偏見を崩してくれるのはとても楽しい。
気をつけてはいけるけど、かなり偏見を持ってしまうタイプなのでこういう経験はとても貴重である。
〇〇はかくあるべし、っていうのを変えるのは新しい視点から考えなくちゃいけないし、そもそもその新しい視点をなかなか得られないからとんでもなく難しい。
この面白さって新規事業立ち上げみたいなものなのかもしれないね。世間に出ていない新しい価値観を生み出すこと。お作法を変えれば論文だってそうだし、映画や小説だってそうだ。
やはり、新しい面白さっていうのを偏見を抱きつつも楽しみにしちゃうのが人の性なのかしら。
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発明家ってすげえよな!その発想をきちんと形にするだけの専門知識であったり、言語能力があるわけだもの。
知識を得れば得るほど固くなりそうな発想もきちんと情報収集しながら開発のためのアンテナも維持する。なかなかできることじゃないよ。
そういう面白い人になりたいね。
〈922.自分のこと〉
4月7日。
ついに京都の全ての仕事が終わった。2月に論文を出してそこで京都生活は区切りがついていたけども、ようやく全ての荷物を関東に持って来れた。もう逃げ場はないんだぞと改めて考えるわけであります。6年間の関西生活が終わった。
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となるとこの一年はどうするんだということだ。それは一年前から決めていたことだ。就職後の生活のための学びの一年にする。
1番どうにかしたいところで言えば、やはりプログラミングの習得だろう。1番身近のだいちが自習で獲得して仕事を得たわけだ。彼みたいな地道な努力ができるかは怪しいけども励みになるし躓いた時の助けを求めることだってできる。心強い。
そして、やはり諦めていないところで言えば文字書きである。やっぱり900日続けているわけだし、この一年でもっと上手くなりたい。小説なのか、漫画の原作的な話の書き方なのか、エッセイなのかはわからないがもう一度やってみようと思う。
同時にお金も貯めなきゃならん。一年目からしっかり貯金できることってあんまりないとか聞くし。そしたらこの一年でちょっとは生活の足しになるような貯金をつくらなきゃならん。いったいいくらできるのかは怪しいけども、フリーター的な立場をしっかり果たせる程度には働くことよね。
後期になったらもう一度研究をしなおそうと思っている。具体的には論文を書き直すことだ。書き直して、どこかの雑誌に投稿したい。
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こういう話をきちんと通すためにも就活をしっかり終わらせることだ。身分が固まらなければ落ち着いて向き合うことはなかなか難しいからな。とはいえ仕事先を求めながら、きちんと身を立てることを同時進行することだ。実際仕事が始まった時に時間を効率よく使うための授業期間のようなものだ。
来年には20代も真ん中になる。そろそろきちんとひとりで生きていける力を得なければならない。
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関西から去るということは、学生身分から脱することを僕の中では意味している。改めて、大人であることを考えてみて、それってつまり生きるってなんだってことを考えていくタイミングなんだろうな。
あと60年70年あるだろうから難しく考えないほうがいいのかもしれないけども、これからの人生で今が1番若いって言うからね。
〈921.意見を持つこと〉
4月6日。
意見を持つことについてはこれまで何度も考えてきた。
高校の友人が、考えがないことは考えを放棄していることと同じで愚かなことだ、そんなのありえないと私を怒ったことから。
さて、それについて色々考えたけどやっぱりある程度意見は言えないとあかんと思うようになってきた。
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考えを言わないというのが僕のスタンスだったけど、考えを言わない人間は二つのパターンがあるように思った。そこで意見をどのように持っていくのかについて考えたところから整理したい。
死刑制度に賛成か反対か意見を求められたとしよう。
はじめはこれに対してなにもない。というのも情報がないので善悪わからないのだ。そもそも死刑制度が意味するところがわからない。だから、私は反対だが君はどうだい?と問われると「んーまぁそういうのはなんとも言えないよねぇ複雑だから」と適当に逃げることになる。
これをきっかけにアンテナを立てるようになり、情報を集めるようになる。そういうときは最近であればネット記事であったりまとめサイトだったり個人ブログだったりYouTubeだったりする。こういうのは大抵どちらかの立場からの意見になる。それに賛成であれば同じような意見を持つようになり、内容に批判的であれば反対側の意見を持つようになって賛同できる意見を探す。つまり誰かの意見を手がかりに自分の意見を持つようになる。「犯罪犯しても死なずに飯を食わせてもらえると思うやつが生まれるから死刑は残すべきだ!」
しかし、興味を持っていろんな情報を集めるとなんとも言えなくなってくる。というのも、どちらも正義がありそれぞれのロジックがあるから。情報を集めて根拠が弱いところを見抜けるようになると、少ない情報で過激な意見を用意する人がなんとも残念だと思えてくる。しかしそこには正義があるともわかる。その結果、明確な意見が用意できなくなる。「冤罪の可能性が捨てきれない。人間が人間を裁くんだもの。それぞれの人間の立場になったとき自分も犯罪を犯さないとは言えない。悲しい背景もあり得る。命を奪っておしまいってのは極端かもしれない」
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つまり意見しない人間は、無知か知りすぎたかになると思う。そんな人間を分けるのは問われた時の答え方である。
無知な人間はあなたはどうかと問うてくる。そこの意見をもとに議論を展開する。そもそもの知識不足だからディスカッションができないのだ。
これね、自分なんだよね。わからない話をされたら相手の話を聞いて、そこから意見を探す。
これすごく悲しいのよ。自分が残念に思える。
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つまり、きちんと情報を集めた上で話をしましょうということだ。
専門家として責任を負えるくらいに。
意見がなくても知識はないとダメだよ。判断はグレーにしても、グレーという判断が出せるくらいには勉強しなさい自分よ。
〈920.仕事コミット率〉
4月5日。
夢の中で就職後のことを見た。
夫になって、父親になった。そのとき複雑な気持ちだった。仕事に100%向かわなくなるということか、と思った記憶がある。夢なのになんでそんなことを考えなきゃならんのだ。
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そんなとき、上司的な人が僕に言ってきた。100%から減っていくっていうのは悲しい考え方だな、仕事できなくなるっていう見方しかないのはさみしいなと。
お前は誰だ。知らない人なのにそうですか、じゃあどう考えてるんですか?とアドバイスを求めている。
上司は言った。確かに夫になって家事も分担するし、子供ができたらもっと家のことをしたいでしょう。そしたらたしかに仕事は90、80%ってなるように思えるかもね。でもそうでもない気がするんだよね。マイナスにはならない。
だからお前は誰だ。未来の上司なのか。
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結局、はぁそうですかそういうもんなんですかネェと曖昧な返事をして終わった。
しかしながら、確かにマイナスではないように思える。これは一体なんだ。
まず家事の分担ってことを考えよう。一人暮らしであれば自分のことを1から10までやるのが一人暮らし。それをパートナーと分担できるようになるのが同居するということだ。もちろん世の中の奥様はそうならないから夫の愚痴をおっしゃることになっていると思うので、あたしはちゃんと家事もやりますという前提でね。
つまり、数値上では一人当たり10の仕事量が20になるけど、それを二人で割れば10だ。一人暮らしと大差ない。むしろ、お互いの得意不得意に合わせて仕事を分担できるので楽かもしれないね。そしたらむしろ仕事に対して一人暮らしよりコミットできる。
パートナーに配慮するという一人暮らしではなかったストレスが生まれるかもしれない。それは落ち込んだ時に支えてもらうというプラスで帳尻あわせになりやせんかね。
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子供ができたらどうだろう。現状育休をちゃんと取りたいので、そしたら赤ん坊のころは仕事を休むことになる。それは完全にマイナスである。お給金でもキャリアでもブランクになるんだもの。
しかし、一人暮らしでは見れなかった世界を知ることができる。親という大衆の視点を得ることができる。そこから社会を見ると、仕事の方にも影響が出るに違いない。
もちろん育児ストレスは半端ないだろう。ネグレクトしないか不安で仕方ない。きちんと元気で優しい子に育てられるかわからない。
親という観点は後日考えるとして、一人間としては確実に考える視点を増やせるのはプラスになるに違いない。
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そうなると、一人暮らしでずっと仕事にコミットするのを100%とするとき、パートナーと同棲すれば確かに90,80,70%に落ちる可能性はあるけども、家事の分担とか心の支えって意味では100%であったりそれ以上になる。
子供を待てば絶対的に時間はかけられない結果、仮に40%になったとしても親の視点を兼ね備えた存在になると×2,×3になるような気がする。そしたら80,120%と大差ない仕事ができる。
というか、ここまで考えるとそういう問題じゃないのかもしれない。別の指標なんだから、同じ100かどうかなんて比較できないかも。
とにかくそれぞれの身分にはそれぞれのメリットでメリットがあるので、なるようになるさということかもしれない。
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夢の中の上司は誰だったんだ。あとで答えを聞かせてもらいたいんだが。
〈919.習慣のこと〉
4月4日。
ホットケーキをつくった。
ホットケーキミックスからだけど。楽しかった。空腹を満たすための食事じゃなくて、楽しみとしての食事。こういう料理はほとんどやってない。
空腹を満たすためだけなら見た目とかどうでもいいし、むしろ具材をわざとデカイままにしたり固くして歯応えを求めたりした。でも今日は完璧なパンケーキを目指して作った。
色、柔らかさ、味。ちゃんと分量計ってつくるのは恥ずかしいながら初めてかも。いつもと違うものを求めるのは面白い経験だった。
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皿洗いも最近はよくやっている。まえはとにかく貯めに貯めて、使える食器がなくなったらしゃーなしまとめ洗いしてた。でも最近はきれいにしておくほうがよろしいよということで、食後おちついたころ、寝る前には全部洗うようにしている。これが意外と気分がいいもんだ。
最初は珍しさから楽しかったりしたけど、習慣になってきたこのころはめんどくさかったりもする。それでも無いということが習慣であるために洗うようにしている。なによりそれが僕のタスクだから。
皿洗いは結構好きなんだよね、という言葉は皿洗いが習慣じゃない人の言葉だと思う。習慣に好きも嫌いもない。やることになってるのでやる。まわりから言われたかもしれないし自分からかもしれないけど、とにかくやるのでやる。
最近の皿洗いはようやくその領域に入った。
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高校までのテニスの練習もそうだった。もちろん負けたことが悔しかったり、自分の理想のプレーをしたいから練習したんだけど、それ以上に結局、やることになってたからやってたんだと思う。
そこに好き嫌いってあんまりないような気がする。もちろんテニスという競技は大好きだけどね。毎日の練習に対しては無感情だったな。良くも悪くも。
習慣にするってことはそういうことだ。刺激がないこと。それに対して良くも悪くも刺激がないのでストレスにならない。顔を洗うことだったり歯を磨くこと(人によっては特別な感情もあるかもしれないけど)と同じように、皿を洗ったり料理をしたりする。
めんどくさいというネガティブな気持ちもあったりするけど、やらないことのほうが気分悪いのでしゃーなしやることもある。そういうもの。
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だからテニスでは一流にはならなかったのかなぁと思ったりする。
皿洗いの次は部屋掃除かしら。それより洗濯かしら、料理かしら。
習慣ごとにするのは感情がなくなること。そして人と比べられたりしたときに、ふいにそういやそういう習慣だなあと気づくもの。
家事頑張ろうね。
〈918.観劇〉
4月3日。
はじめて劇団四季を観た。エンディングで大泣きしてした。内容がよかったからこそ、最後に出演者が全員出てきて拍手に応える姿をみてもう無理だった。
人に感動を与えて、その結果スタンディングオベーションを受ける。それがこの人たちなんだと思うと泣けてきた。一流の役者さんたち。そして人に感動を与えて、趣味になって、生きる理由になってたりする。
エンターテイメントの最高の形を体験した。うらやましいねぇ!
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歌であったり、踊りであったり、演技であったり、すべてがよかったからこそ最後に感動があったんだと思う。それよりもそんなすべてを総動員してある種の別世界に誘い、心を動かし、そして感動を与えられた我々からの賞賛を上品に応える姿。いいよな!
とんでもない映画を見た時と同じ気持ちだ。でも映画だと拍手も意味はない。監督に、役者さんに、関係者に拍手したいけども。それができて生きて目の前で賞賛を送れるんだもの、演劇っていいな。双方向性がある。
MOTHER2のスタッフロールと同じ気持ちだ。スタッフに直接拍手はできないけども、主人公や仲間たち、街の人たちが愛らしく次から次へと出てくる。それを涙ながらに笑いながらお前よかったよぉと独り言を言う。
感動を与え、受け、賞賛し、応える。この双方向性が楽しくて仕方ない。あの劇場の中の人間しか知らない喜びである。いやぁよかった。
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そうなると次は歌舞伎を観たい。伝統芸能はほとんど観たことがないのはもったいないことである。ぜひとも勧進帳を見てみたいな。それくらいしか知らないってところだけども。
ようやく観劇する楽しさの意味がわかった気がする。内容それ自体+役者・観客との感動の共有。これだね。内容だけだったら泣かないけど、それがこの人たちによって成立したんだと、役の姿ではない現実の姿を見た時に感動が出た。
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関西空港に帰国するたび、マリオたちが迎えてくれる。それをみて毎度泣きそうになるのもそれに近いのかもしれない。それはまたいつか関空に帰国した時にでも考えよう。
〈917.③現実は非情である。〉
4月2日。
好きだったゲームのサービス終了のお知らせが来た。アプリのサービス終了なんて今の時代驚くことじゃない。しかし、実際に自分が長いこと遊んでたゲームがおわるというのはなんとも切ない気持ちになる。面白くてもお金を払ってもらい続けないとアプリは続けていけないし、だからといって金目当てに走ったところでなんにも面白くない。
買い切り型のゲームと違う難しさがアプリにはあるよね。
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どんな気持ちかわかりやすく説明すると、追っかけしていたジャニーズであったり、アイドルだったりのチームが解散するような気分である。もちろん、メンバーのうち何人かは活動を続けるだろうけど、そのチームを見ることは出来なくなる。
仕方ないことなんだけども、いつか終わりは来るとわかってはいるけども、やはり寂しいものである。なにはともあれありがとうと、また頑張ってくれやいってことである。
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なにが悲しさかといえばアイドルとは違って、アプリのサービス終了とは簡単に言えば売れなくなったので販売終了ということだ。
アイドルは売れなくなったら自然消滅みたいなところがあると思うけど、有名キャラクターを使ったゲームのサービス終了はダメだったということに他ならない。サービス終了にあたってのプロデューサーの言葉がその現実を示していた。謝らなくていいのに。やはりデカイプロジェクトがこけてしまったということの罪悪感だろうか。
楽しかった。僕はめちゃめちゃ時間を費やしていた。一度やめたけどまたやっていた。でも現実は非情らしい。
どうかまた面白いゲームをつくってほしい。
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いずれ僕もそれに似たような境遇に陥るかもしれない。発信した内容がビジネスとしてまわらなくなって責任を取ることになるかもしれない。たぶん目の前が真っ暗だろう。飯も食えないかもしれない。そんなときに知らない見たこともない人からの声援は救いになるかもしれない。知ってる人からの言葉も嬉しいけど、知らない人ってのは作品を愛してくれたってことに他ならないからね。
ほんとね、好きなゲームだった。ありがとう。次の面白いゲームを作ってくれやい。