ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1117.アクションゲームについて〉

10月18日。

 

ちょっと前はスマブラ、最近はフォートナイト。
対戦型のゲームにドはまりする。そして半年しない程度で飽きてくる。
なぜドはまりしたのか。そしてなぜあきてくるのか。

 

 

ドはまりするのは簡単である。勝つことが気持ちいいからである。
スマブラであれば相手をフィールドから追い出す気持ちよさ、必殺技がタイミングよくドーンと決まる気持ちよさ、そのうえで勝利する気持ちよさ。
一種のスポーツである。相撲やボクシングに近いだろう。だからeスポーツなるものが流行るのはわかる。
フォートナイトであれば、100人のなかでこそこそ生き残って最後に一対一で勝った時の気持ちよさ、相手を上手く翻弄して弱い武器ながら敵を倒して強い武器を手に入れる気持ちよさ。

どちらも細かい別のモードが用意されているが、つまるところ気持ちいいからやりたくなるのだ。
それなりのハードル(対戦相手)があり、それを超えた快楽が報酬として必ず用意されている。

 

 

なぜあきるのか。
同じ刺激だから。スマブラであれば100種類のキャラクターがいる。しかしさすがに半年もやれば好きなキャラクターであっても飽きてくる。フォートナイトでもいろんな地形があってそれぞれに戦い方があったりするけども、半年もあれば慣れてくる。100%勝てるまで辞めない!という人もいるからサービスが続いているし、定期的なアップデートでキャラが追加されたりするから辞めない人もいるだろう。
しかし、「ゲームとしての面白さ」ではない別のコンテンツとしての楽しみを見出していることになっているともいえる。逆に言えば、ゲームだからアクションに面白さがある!勝つことの爽快感が要!というわけではないともいえる。
しかし、それを求めている身としては飽きてきたら辞めるのだ。別のアクションゲームに移動することになる。

 

 

アクションゲームというのは、基本的に消費されるものだろう。だれかの心に残るようなものは作らない。
それでいい。訴えかけるようなものにしたら敷居があがるんだから。爽快感を前面に売り出せばおっけーである。

逆に言えば、RPGなどは当然敷居があがる代わりに長く遊んでもらうようになっている。この難しさがあるんだろうと思う。
アクションゲームはそもそも飽きていい。それはブロック崩しインベーダーゲームと同じ系譜にあるんだと思う。いまでも現役でブロック崩しやってます!なんて人はほとんどいない。
ほとんどいないということは、ビジネスとしては成立しないということである。

その代わり、それを改良したり、同じシステムをちょっと改良したりを続けて「新しいゲーム」として発表し続けることが必要である。
RPGはそれに対し、ゲームシステムはほとんど変わらなくてもいいかもしれない。もちろん時代に適した遊び型ができなければそもそも手に取ってもらえない。しかし、大事なのは世界観やストーリーである。それが素晴らしいできであればファンから文句は来ないだろう。

つまり、アクションゲームはアクションに改良を重ね、RPGは物語に改良を重ねる必要がある。

 

 

例えば、フォートナイトの中でもアクションの改良はある。
それまでなかった武器が出てきたり、地形を大幅に変えるようなアップデートがそれだろう。
確かにアップデートされた当初はめちゃめちゃ遊ぶ。とはいえ、それには新しいソフトをいじりだすような真新しさはない。

 

そして、アクションにしても、アクションをする理由がほしい。つまり、背景である。冒険であればなぜ冒険するのか。対戦であれば何のために対戦するのか。
ほとんどないに等しくても、物語があるとないではモチベが違ってくる。

 

そう考えると、スマブラってすげえな。ほとんどゲームシステム変わってないのに、64からSwitchまで生き残ってるんだもの。

キャラってのも大事なんだろうね。

〈1116.バイト考える仕事を〉

10月17日。

 

バイトも始めてから3カ月が経とうとしている。さすがに慣れてきたし、何回か入りたての人に教える機会もあった。
そうなってくると、いわゆるルーティンワークになってつまらない。もっと効率よくするには!?とかバイトの身分で考える人はまずいないだろう。
もちろん、バイトリーダーとかになればあるのかもしれないけど、そういう役職は用意されていない。

そういう怠慢なバイトが他にもいるのかもしれない。社員さんのほうから「頑張っている人さがしキャンペーン」をはじめる告知が入った。
めんどくさいなあと思ったけども、ちょうどいい緊張材料になる。なるほど、うまいタイミングでもってきたものだ。

 

 

そのキャンペーンは名前の通り、仕事中に参考になることをやった人を紙に書いて報告させるものである。
これに書いてもらうためにきちんとしよう!という前向きなモチベが生まれるわけではない。しかし、これをみんなが意識して仕事をしている、となるとあまりになまけた行動は慎むようになる。もちろん、名前を書かれてうれしくない人もいないだろう。
つまり、ネガティブな話をせずにネガティブな行動を是正させるなかなか賢いキャンペーンだということだ。

そしてバイト先は接客命な現場である。うまいことこういう機会を設けて引き締めることが大事だというのも知っているのだろう。

 

 

バイトしている・していた人ならわかると思う。
ルーティンワークの中で「人よりがんばっていた」ポイントを探すのはとても苦労するのだ。だれしもできることをバイトではやるわけであり、そうじゃない出来事は社員さんが大抵は対応するわけだ。そしてそんなイレギュラーは滅多に発生しない。
キャンペーンをはじめて時間が経過した時が難しいだろう。はじめのちょっと緊張感がある状態から「とりあえずあの人書いとけ、お前書いといてやるよ期」に移行する。するとキャンペーンの目的を達成するどころか、むしろマイナスなぐだぐだ感が出てくるだろう。

 

このぐだぐだが生まれないように、一週間程度の短期キャンペーンにしているようだ。なかなかその点も賢い。
これを長期で実施するならどうするだろう。競走を促す、というふうにとらえれば表彰をして給料アップだろう。バイト相手にそれをやる余裕があるかはわからないし、それなら社員の待遇を上げるほうが優先されるかもしれない。
となるとやはりバイト相手に緊張感を生ませるのは難しいかもしれない。そもそも目的はほとんどの場合、お給料なわけである。より会社を良くしようと思ってバイトをする人はいない。
最低限のマニュアル仕事を頑張ってもらうほかないか。

 

 

そうなると、やっぱり「仕事を楽しい」と思ってもらうほかないだろう。接客なら接客が楽しい、マニュアル仕事ならマニュアル通りやるのが楽しいと。接客好きが接客するならともかく、マニュアルが楽しいなんていないぞ。困った。
となると、もともとの目的をはっきりさせることが必要になった。なんのためにバイトのぐだぐだを回避するのか。
トラブル回避?それならバイトの数を減らして機械を導入すれば良し。より効率的な業務?そうなると待遇改善だろう。
そういうお金がかかる対策ができない時にどうするかだろう。

 

 

となると、現状維持しながらバイトのモチベ向上を図るしかないか。
一番成績良かった人は、めっちゃ美人な店長によしよししてもらえる!これならやる気出るでな。

これ結構核心だと思うな。美人じゃなくても、良好な人間関係のもとでギブアンドテイクが成立していることがビジネスでは大事なのかと思われる。
なるほど、こういうことはきちんとビジネス書で勉強するといいかもしれない。
本屋に行って勉強してみよう。

〈1115.ブッケンサガシ〉

10月16日。

 

半年もすれば新社会人になる。
今住んでいるところから出社はできないので引っ越すことになる。いくつかの候補にようやく絞れたので不動産屋にお邪魔して、内見してきた。
3年前に京都の部屋探しに内見して、その4年前に大阪の部屋の内見をした。しかし当時はどうせ数年で出る家だからなんでもよしと、駅近とかスーパー近くとか、適当に探したもんだ。
しかしながら今度は社会人である。何年過ごすかわからないし、なによりリモートワークの時代になってしまった。
部屋で仕事できるっていうのは、これまでちゃんと考えてこなかったので今になって難しかったりする。

 

 

大きく二つがある。間取りと地理。


間取りは単純だ。寝る部屋で仕事をするのか、あるいは別にするのか。リビングはどうする、風呂は、トイレは。特にこだわりがあるわけではないけども、やっぱり広いほうがいいし、内見してみてここはどう使えるかなど考えることは多い。


地理状況。これが重大問題である。駅に近ければもちろん値上がりするが、その分色々便利であることに違いはない。しかしながら騒音問題もあるし、空が小さくてかなわん。かといって駅から離れれば交通手段がなくなる。車持ちでないとなにもできなくなる。

この二つの条件がぴったしになるのは、たいていが金持ち物件である。社会人一年目からは住めるわけない。
妥協に妥協を重ねるほかあるまい。

 

 

しかし、時々大穴の物件があったりする。タイミングの良し悪しもあるだろうし、訳アリというパターンもある。
駅近で広くて安い。時々人が亡くなった物件だったりするけども、それは最初は教えてくれるらしいし、今の時代ネットである程度は探せる。
これはやっぱり、運だろう。あるいは不動産のおっちゃんが隠し玉を出してくれるように仲良くするしかあるまい。

 

結局のところ、運を引き寄せる人間が得するのが物件探しだと思われた。
不動産に言われるがままというのも悪くないことを学生時代の家探しでは学んだけども、ちょっとこだわるなら対等に話を進められるようにするしかあるまい。
知識では不動産のおっちゃんに頼るしかないんだもの、きちんと良い条件を引き出せるようにいい人にならんとあかんぞこりゃあ。

 

 

現状まだ未決定だけども、よさげなものは見つかった。事前にアプリで探したり探してもらった奴である。
完全に頼りすぎず、ある程度自分で頑張るのも必要なんですね。

こういうの、苦手だなあ。だから前の家探しだと完全に不動産のにいちゃんに頼り切りだったんだよねえ。
物件探しが得意な人の気がしれませんよ。

〈1114.マンポケー〉

10月15日。

 

iPhoneにもともと入っているアプリに万歩計機能のものがある。
おそらく最初に起動したときにざっくり登録した。しかしその後一度も起動していなかった。しょうがない。あんまり興味ないんだもの。
それをバイト先の先輩の勧めでチェックをしてみると、これまた面白い。あたしはこんなに歩いてないもんかね。

 

 

万歩計に興味を持つのは、おそらく一度健康を害した経験があったりする人になると思われる。あるいはダイエット目的に散歩をする人とか。どちらも当てはまらないので、当然興味がない。
しかしながら、あのアプリはなかなか素晴らしい奴でして、起動していないのにきちんと記録し続けていてくれる。意識していないのに、ニ、三年前からのデータがある。すると、一日100歩くらいのインドア生活もあれば、30000歩もうろうろしているような日もある。
けっこう動いているほうだと思っていたけど、月平均で4000歩程度らしい。
思いのほかインドアな生活であることが露呈してしまった。

このアプリをすすめてくれた人は、月平均15000歩を目指して休憩中もうろうろしていた。
歩いているだけで健康になるのかしら。はなはだ疑問ではあるけども、何もしないよりはずっといいに違いない。

 

 

そもそも万歩計ってどうやって計測しているのか。
原理はちょっと難しいらしい。上下の振動で開いたり閉じたりするスイッチがあり、それを記録するタイプの万歩計がある。それともっと近代的で、上下運動で電圧が生じてそれを記録するタイプがあるらしい。
スマホアプリの場合は、地面に対して垂直な振動を読み取ってなんやかんやで計測しているらしいとな。
結論、よくわかんないけど歩いた時の振動を定義づけて、それを計測するようになっているとか。すごいね。もともとはダ・ヴィンチのアイデアだったとか。
とんでもねえや。

 

 

とまあ、かなりややこしい構造によって歩数は数えられている。
歩いて健康になるかは置いといて、こんななかなかな開発物がスマホの中で眠っているのはもったいない。なにかうまいこと使い道はないかしら。
そういえば、歩数のカウントと、階段を上った数のカウントは別々にされていた。それなら筋トレ目的で階段のほうの数字を重点的に求めるのはありかもしれないぞ。
おそらくこれもまた別の定義づけをされたうえでカウントしているんだろう。
まったくもってすばらしいね。

 


これをもっと別のスポーツでも使えないかしら。テニスのフットワークは万歩計では難しいと思われる。細かい振動が永遠にやってくるので正確さに欠けると思う。
ちゃんとしたところだとそういうのも計測する機械があるんだろうが、僕にはその機会がない。うまいこと万歩計を改良してそういうのに対応してもらえないかしら。

こう考えると、やはり理系に対するうらやましさがある。
物理学とかまったくちんぷんかんぷんだものねエ。

〈1113.書くこと、考えること〉

10月14日。

 

昨日の今日なので、色々書くことについて考えた。しかし自分一人で考えても仕方あるまい。これまで読んできた文章術の本を読み返してみた。

 

やはり先人の教えは乞うべきだろう。いろいろすっきりしてきたのでメモしておく。

 

 

読みやすい文章とは、結局のところきちんと論理の整合性が取れているもののことである。これは大学時代のスピーチ原稿の作成でも習ったことだ。

 

前後の文章で議論のすり替えが起こってないこと、論理の飛躍がないこと。つまり、つなげ方・展開の仕方が正しく行われていること。

 

いまでこそなんとなく慣れてきたような気がするが、スピーチ原稿を作っていたときには案外わかってなかったりする。

前の文章では日本の政治の現状を述べ、後の文章で今後の政治の話をする。そのときに同じテーマだから大丈夫だと思い込みがちである。しかし、前の文章で元になった政治思想をベースに現状を分析し、後の文章で一つのゴシップ記事から未来予想を始めたら、ひっちゃかめっちゃかなのはわかると思う。

 

「民主主義のもと、選ばれた議員による横暴はつまるところ市民の横暴と考えられる。〇〇議員は政治資金を愛人との旅行に費やしたが、これは日本の未来が荒廃することを予知する事件である。」

 

我ながらわけのわからない文章になったが、わかりやすい。一つ一つの文章の根拠もなければ、繋がりがおかしいパターンである。

意外とこれが発生するから気をつけて書かないとあかんのよ。

 

 

この読みにくさを回避するためにも、接続詞をきちんと使うことがとても大事なことだと思う。これは修士論文を書いている時に先輩に指摘された。

接続詞があれば、前後で全然違う話をしていることはなくなる。

例えばさっきの例文の一文目と二文目。「市民の横暴と考えられる。〇〇議員は、、、」この間に適切な接続詞はない。話題が全く別のものになってしまっているもの。意外とこれも意識しないと発生してたりする。

正しく繋がっていれば、接続詞は削ってしまっていいときもあるとか。

 

これをわかりやすくするためにも、一段落で主張できるのは一つまでだとされる。スピーチの時に言われました。一段落で二つの話がされると、もうなにについて言いたいのかわからない。

 

 

文章術のうち、個人的に一番困っているのが語尾である。いわゆる断定「である、のだ」などを使うのが怖い。これをきちんと使えるというのは、自信がある話題であるということ。話題に自信があるというのは、きちんと知識があり、なおかつ体系的に理解できているということだ。結局のところ論理的に理解し、表現できていれば断定を使える。

 

もちろんさっきの文章を見てわかる通り、仮に論理的に話題展開できていてと、断定というのは敵を作りやすく、仲間と盛り上がりやすい鋭い意見になる。政治がテーマの新聞記事だと断定が多い気がするのはそういうところがあるんじゃないかしら。

 

 

とまあ、まだまだ考えるべきことはたくさんあるけども、文章化するというのは整理するということだと思った。

物事を整理して、それをわかりやすく伝えるために繋げ直す。モヤモヤしていたものが形を現してくれるのはなかなか気持ちがいいぞ。

 

僕が文章を書くことが好きなのは、整理できるからだと発見しあ。そして整理した中でなにかそれっぽい"教え"が得られるから。これまでの大半の文章がそうだ。日常の気になったことを文章化することで、気になったことを言語化できて、同時に教えを一つ得られる。

書くことは考えることだと1000の文章を書いて行きつきました。

〈1112.1112〉

10月13日。

 

ふと、この記事の数が気になった。1112。
もう始めたのは3年より前になる。毎日、ではないものの一応毎日やった分の量にはなっている。
さて、僕はこの3年でなにを得られたんでしょうか。本来の目的である文章力はあがったのでしょうか。
いやー、それはなさげだでな。

 

 

もっと上手くなるための練習方法はなんとなくわかる。
もっと読み手のみなさんを意識して、面白い展開の書き方とか、ワードチョイス、まったく別の文体への挑戦、簡潔で分かりやすい文章の型など。やるべきことはたぶんたくさんあって、だけどそれをするほどの熱量もなし。
だらだらと続けて自分を良しとしているに過ぎないわけであります。しかしながら、この微妙な熱量だからこそ1112という数になっているわけでもあります。
いやねえ、熱量をもって1112書けてたらもっとおもしろいもんが書けるんだろうけどもねえ。怠惰なあたしにはちょっと厳しい注文だわね。

 

 

じゃあこの熱量で上手くなるにはどうしようか。
毎日続けるだけの熱量はあるけど、さらに一歩ストレッチはカンベン。逆に考えれば、僕は毎日続けることについてはまったく苦痛にはならないけど、ストレッチをかけることには苦手があるということか。

そうなると、それほどストレッチではない軽いストレッチにとどめる必要があるということだ。トレーニングジムではなく、おばちゃんが通うヨガみたいな。
となると、地道なところから見直すのがいいかもしれない。例えばワードチョイス。これは確かに前々から気になっているところである。
熟語の選び方にはかなり偏りがある。知らない単語を毎日一つは盛り込むとか。あるいは辞書をパラパラとめくって、指さした単語を必ず使うとか。そりゃあいいかもしれない。
そうすりゃ一年で365単語増えることになる。こういう時に欲張らないことも大事であるというのも覚えた。
まずは続けること。その上でのストレッチである。

 

 

ほかに何があるだろう。
文章が何からできているのか整理する必要がある。要素を見極めてそれを成長させればいいわけだからね。
ワードチョイス、文法、展開の型、ストーリー。あまり思いつかない。
となると、そもそも文章が何か、ということを勉強することが必要かもしれない。そういう本を読むのは一つだろう。

結局僕は文章を上手くなろうとしているけども、文章についてよくわかっていない。それなら上手くなるものも上手くならない。
強くなるためにもまずは己を知ることだ。そして今、知らないということを知った。

書き続けるという習慣は身についたから、それを継続しつつ成長のために知ることを始めるとよろしかろう。

〈1111.人と話をする〉

10月12日。

 

昨日のお酒の席でにいちゃんが言っていた話をメモしておこうと思う。
生きるの楽しいですか?みたいな話題になった時に、その人はもっと楽しく生きれると思う、みたいな返事をしてくれた。
それはどういうことですか?
それっていうのはな…。

 

 

楽しいとか、幸せっていうのは、グラフの面積を大きくしていくようなものだと思う。
人間関係、お金の有無、健康、他やりたいことなど。そういう自分の大事だと思うことを頂点にしたダイヤモンドグラフを描いてみる。
その面積が大きければ大きいほど、幸せだといえるだろうと。
それが例えば、怪我をして健康が損なわれると他がどれだけ充実していようとも面積は小さくなってしまう。同時に頂点をたくさん持っておくと、一つが欠けても頂点が少ない時に比べるとダメージが小さくなる。

結局、どれくらい頂点を増やしつつ、それぞれをバランスよく大きくできるか。これが大事だろうということだ。

 

 

その人の話はこういうことだった。
確かに幸せっていう概念はいまいちつかめないし、その人がどう思っているか次第である。だから本来は他人からはなんにも口出しができない。
それはつまり、自分自身でもはっきりと言えなくなる時があるということでもあると思う。
そういう時に、感覚ではあるけども数値化・可視化するとすっきりするものがある。
これは一つの助けになるグラフの描き方だろう。

 

 

こういうことは自分だけでは見つかりにくい。
年上の、たくさん悩んできた人だからこそわかるものだろうし、おそらくその人も自分で開発したのではなく、啓蒙書とか有名人のインタビューとかを見て学んできたのだろう。
僕はそれのいいとこどりをさせてもらったわけだ。ありがたいね。

 

人と話をするというのはこういうところだと思う。もちろんあんまり踏み込んだ話はなかなかできないけども、それが可能になった時にちょっと視野が広くなったり、新しい面白さを発見できたりする。
そしてその話をするのは、できれば属性が違う人がいいだろう。会社がちがったり、職種が違ったり、年齢が違ったり、性別が違ったり。それぞれの悲しみとか苦しみとかを乗り越えて、それぞれの生き方の軸が定まったような人。

学生同士の飲み会ではどうしても近況報告とか悩み相談で終わってしまう。そしてほとんどの場合、知らない世界を提示してくれない。提示できるというのは、それ相応の経験があって、それを整理してまとめあげる時間的余裕が必要だ。
そうなると、やっぱり自分より年上と話をするのが一番面白い。

 

 

会社員になっても、そこだけは忘れたくない。自分より年上で、いろんな闇を見てきたような人と話をする。
これは僕の幸せのための一つの頂点かもしれない。そうして話を聞く中で別の頂点を見つける。
そうやって頂点を増やすことが一つの楽しいところだ。

そう考えると、僕はやっぱり会社に就職する選択をしてよかったかも。まったく違う背景を持つ人たちが集まってくるところはさぞかし面白いだろう。その中でつまらない人間と認定されないためにも、自己研鑽することだ。