ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1397.残業を経験すること〉

8月30日。


仕事は残業ができる。しかしホワイト企業なので、22時までに仕事を終えないとお叱りを受けることになる。
なので、ちょいと忙しい時期でも、ぎりぎりの21時45分とかに退勤することになる。


しかしながら、22時ごろに仕事を終えることがこんなにも厳しいことだとは知らなかった。
世の中の残業サラリーマンが鬱病になることもよくわかる。
そりゃあしんどくもなるさ。



僕は恵まれた仕事につくことができたので、業務内容に文句がないだけありがたいことなのだろう。
しかし、朝8時から22時まで働くと、仕事以外のことが何一つできない。
いや、当然のことだけどね。これは体験してみないとわからないことかもしれない。
リモートなので、起きてすぐにパソコンを起動する。そして昼に休みをいれて、ちょこちょこ飲み物を飲んだりして休憩は入れる。ただ、業務内なので心の底から休まることはない。
そして22時だと、ご飯を食べて風呂に入ると23時である。


勉強して昇進街道まっしぐら!とか考えていたけれど、そうも行かなくなった。疲れて寝てしまう。
しかも、たった一日・二日続けてこの生活をするだけでこうなる。
毎日していたら、そりゃあ頭の中仕事だけになるし、そうなったら鬱病にもなるさ。



「仕事をやめても代わりがいる、それくらい軽い気持ちで仕事に向かうべき。」
こういう言葉をネットで見かけるが、これは非常に危険な言葉であるように思う。
朝起きて、寝るまで仕事をするような人に、お前の代わりはいるぞ!というのはとどめの一撃になってしまう。
だって、解釈によっては、「それだけやってるお前が存在する意味はない!」という受け取り方もできてしまうもの。
実際、たった数日の残業だけど、これを表から否定されたらやめたくもなるだろう。残業することには理由があったり状況があるわけで。その結果、もちろん非効率な働き方をしているかもしれない。そこを一緒に解き明かすことが必要だぜな。


はじめて残業をすることで、そのことの重大さを思い知ることになった。想像では決して辿り着かないものだっただろう。



人間の想像力は非常に自己中心的である。
いくら相手の立場に経って考えようが、無理がある。ミーティングでの一瞬の発言でも、自己主張でも、こちらが腹が立つような発言の裏には、相手にしかわからない事情が必ずある。


一番手っ取り早いのはその立場に身を置くことだ。
研究職や職人の気持ちがわからないならその仕事に密着することだ。逆に営業マンのスポーツマンの気持ちがわからないなら一緒に動いてみることだ。
そういう意味でも、本の虫だけではなく、広く身を投じてみることが、相手への理解には重要になってくる。
そして、いろんな立場を経験して、その先には最大級の謙虚さがあるように思う。結局すべての人間が何かしらに関わっているから成立している生活であることが身に染みてくる。


もちろん、目の前の業務について、替えがきかないという話ではない。僕が残業して出した成果も、たぶん他の新人が出す成果と大差ないだろう。どんな仕事でも、スティーブ・ジョブズだって、替えがきいてしまう。
だが、それと相手の立場にそのままなり替わることは同義ではない。


目の前の小さなタスクに対する成果は替えがきくけど、それを積み重ね、一つの物語としての人生や人となりは自分だけのものである。
それがどんな人にもあることを念頭に行動すべきであろうし、そのためにも相手の立場を経験してみることであろう。


結構楽しいでな。

〈1396.全年齢対象への憧憬〉

8月28日。


CERO」という言葉がある。
ゲームの内容についての倫理規定を決めている団体のことである。そして同じ名称で倫理レベルも示す。
CERO:A」であれば全年齢対象作品、というようなイメージである。映画の倫理規定がわかりやすいだろう。


ゲーム会社に勤め始めて、ゲーマーが好きなゲームだったり、大人向けゲームであったり、選り好みせずに遊ぶようにしている。
そして自分もクリエイターとしての仕事を始めて、CEROの規定で販売方法・表現方法に大きく変化が出ることをはじめて知った。


やはり、全年齢対象というのは素晴らしいことだと感じる次第である。



クリエイターの視点から考えてみる。
倫理規定というのはわかりにくいところもある。
血の表現があればCERO:Aではなくなり、BやCという年齢制限や大人の指導が必要になる。しかし、スマブラCERO:Aであるように、殴る・蹴るという行動の表現をポップにできていればAになる。
後述するが、売り手や広報からしたらCERO:Aであるに越したことない。だが、「本来表現したいこと」に制限を加える必要がある。


これはかなり厳しいことである。
ゲームとしての側面を考えると、結局プレイヤーが気持ちよくなってほしいので暴力表現は最も簡単な方法である。
その表現がリアルであればあるほど「殴る・蹴る」の爽快感は増すだろう。
そしてクリエイターとして表現したい「最もかっこいい」「最も美しい」というのは、往々にして非日常である。
プレイヤーに爽快感を与えつつ、CERO:Aを守り続けるというのは、かなり矛盾する側面もあるように思うのだ。


人間が気持ちよくなるのは、全年齢対象ではなくなっていく、という話もできそうではある。



売り手や広報から考える。
ゲーム産業には「パブリッシャー」というゲーム販売専門の会社や部署がある。
その部門からしてみたら、倫理規定によって厳しい判定が下されるということは、つまり「市場を小さくする」ということに他ならない。
例えば、麻薬に関する話題が含まれる作品だと、当然厳しい「CERO:D」や「CERO:Z」という枠組みになる。
過激になればなるほど、狂信的に好むファンもいる反面、社会一般からは疎まれたり蔑まれたりもする。
「麻薬」という言葉が嫌いな人もいるだろうし、そういう人からしたらそんな作品を知りたいとも思わないだろう。
そしてそういう作品を開発をする会社、という認識も生まれる。


つまり厳しい査定が下れば、市場も狭くなるし、今後のファンに対する態度も気を付けなければならなくなる。
パブリッシャ―からしたら面倒だし、利益も望めなくなるかもしれないし、ちゃんとした理由がない限りは「CERO:Z」をやすやすと認めなくはないと思う。



しかし、個性を重視するようになっている世の中・ファンのニーズとしても、「CERO:A」よりも「CERO:Z」のほうが興味がそそられるだろうし、コアなファンがついてくれるほうが将来的な利益も望めるかもしれない。
つまり、会社/個人がどういうスタンスで仕事をしたいのか、というその一点に尽きる問題ではある。


CERO:Aは素晴らしい」という感想になったのは、とにかく僕の私見でしかない。
子供が楽しめる、というのは尊い情景であるように僕は思うのだ。


最近好きなゲームで「JUDGE EYES」というゲームがある。少し前の作品だが、キムタクが主人公ということで大きな話題になったゲームである。
ヤクザ相手にキムタクがばったばったとなぎ倒し、暗闇に隠された真実を追う探偵アクションゲームである。
確かに物語も面白いし、キムタクがおっかないヤクザをぼこぼこにするのは非常に爽快感がある。「CERO:D(17歳以上)」だからこそできる流血表現・過激な表現もある。


龍が如く」という有名な極道シリーズがあるが、その開発チームがつくった新シリーズが「JUDGE EYES」である。「JUDGE EYES」でキムタクが主役という話題があったことで、社会的な認知も広がり、おそらく「龍が如くシリーズ」の売り上げも伸びたんじゃないかと思う。
コアな客層向けであるものの、うまく他作品への流動も促す良い作品であるように思われる。



同時に2015年発売の「ポケモン超不思議のダンジョン」というゲームをやっている。
2005年発売の「ポケモン不思議のダンジョン」を思い出し、その最近の作品をやりたくなった。
やってみると当然「CERO:A」の通り、過激な表現はまったくない。むしろ小学校低学年から楽しめる、絵本のような話の展開であった。
20を超えた私がやれば、当然物足りないのだが、それでもそれはそれとして楽しい。
2005年当時はゲームクリアで泣いた気がするが、そういう人のコアになる部分は幼少期に形作られるのだろう。
やっぱり今回も非常にハートフルで、ゲームシステムに不満はあるけれど、それ以上に物語をはやく見届けたい気持ちでいっぱいである。


人の核に残るゲームってなにかを考えた時に、結局子供のころに遊んだ記憶やそれに近しいなにかを感じた時であるように思う。
確かに「JUDGE EYES」だってめちゃめちゃ面白いし、そういうものをつくっていたいとも思う。
ただ、「あなたが好きなゲームトップ3」を考えた時には出てこない。それよりも「ポケモン」が出てくるだろう。
つまり、僕としては全年齢対象のゲームとして開発し、子供に遊んでもらってその子のその人の人生に深く跡を付けてやりたいと思う。
そして、そういうピュアなところをターゲットにできれば、大人だってひっかかるものがあるはずだ。



これは完全に僕の主義でしかない。
とにかく多くの人に遊んでもらって、心の核になにかを残し、人生を揺さぶりたい。
そう考えると、「CERO:DやZ」のような過激な表現は、話題や映えにはいいかもしれないが、刹那的な消費でとどまってしまうように思う。
ピュアで汚してはならないものこそ、消費せずに残り続けるんじゃないか。
だからこそ、限られた表現の中で思考錯誤し、感情が極まる瞬間を作り出すことの素晴らしさを感じないではいられないのだ。


大衆受けする、というとネガティブかもしれないが、万人の心に響くからこそコアなファンも長く残り続けるコンテンツとも言えると思う。
あくまで僕はこどもに寄り添いたい。そういう方向でキャリアを進めるのがよろしかろう。



毎日投稿と言い出したタイミングで、仕事が忙しくなってしまった。
仕事を言い訳に継続しないのは一番したくないことだったが、ようやくその意味を体験できた。
今後のペースがどうなるかはわからないが、できるかぎりは投稿するつもりである。
男だけど二言・三言合って申し訳ない。

〈1395.好きの優劣と沼〉

8月16日分。


「好きであることに優劣はない!」
ちょっと前に聞いたありがたい言葉である。
オタクや趣味が異性っぽい人への激励の言葉である。
確かに、社会的に優劣はない。これだけは間違いなく言える。そして、この言葉が対象とするのは趣味嗜好に社会性はないぞ、という話であろう。


しかし、「好き」であることの「度合い」についてはやっぱり優劣があると思うのだ。だからこそ、なんとなく飲み込めずにいる。



例えば私は東方Projectという美少女によるシューティングゲームが好きである。
好きになった当時、高校1年生。ニコニコ動画による二次創作が非常に盛んだった。
その当時の僕は、美少女ゲームという「オタクの象徴」を否定的に捉えるところもあり、「好き」である対象の社会的地位というものが非常に重要であるように思われた。だから、好きであることを友達にもあまり公開しなかったと思う。


そういう意味では「好きであることに優劣はない」というのはありがたい単語である。自分が好きであることを肯定してもらえるんだから。高校の時の私に届けたい言葉である。


そして、いまの私はどうなっているか。
東方Projectの最新作がどうなっているのかはわからない。3-4年前に追いかけるのをやめたからだ。しかし、いまでもコンテンツ自体は大好きだし、メディアで取り上げられたり粗品が好きだという話を聞くと非常にテンションがあがる。
この「好きだ」という気持ちを否定する考えはもうないし、恥ずかしいこともない。しかし、仮に友達が「俺東方好きなんだよね」と言っていると気が引けてしまう。
「好きである度合い」が明らかに自分が下位であると感じるのだ。



「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。これは真理だと思う。
「好き」であれば、見たり聞いたりするのが快楽である。その世界観とかに没入することが何よりも楽しい。
そして単純に接触時間が長くなればなるほど、情報を仕入れたり、考えたりする。
すると「私が解釈した○○」という独自の世界観まで生成したりして、それが抑えきれなくなると「二次創作」が生まれる。


じゃあ、今の私が、これまでの私が、東方の世界にどっぷりで、独自の世界観まで落とし込めたかというとはなはだ疑問である。「鬼人正邪」というキャラについてはやたら勉強した気がするが、それもいまではもう抜けてしまっている。
だから「好きだ」と公言できるほど「好き」ではないのだろう、そう結論付ける。



じゃあ胸を張って好きだと公言できるのはなんだ。
「男子テニスプレイヤー」これは単純にここ15年くらいずっと情報を追いかけているから知っていること、考えていることには自信がある。
ドラゴンボール」これも高校の時にドはまりして無限に漫画を読み、ネットの情報を漁ったので自信がある。ただ、知らないことも多いし、最近のスーパーのほうはまったく知らない。でも自信を持って好きだといえる。
ポケモンルビー/サファイア/エメラルド」これもやはり無限に遊んだものだ。レベル100という苦労の集大成を5匹つくったりして、プレイ時間も相当なはずだ。しかし、これも個体値とか努力値とか知らないことも多いんだが。
ドラゴンクエストシリーズ」これもだ。公式ファンブックはいくつも持っているし、シリーズ総合のプレイ時間がおそらく1000時間くらい行くだろう。とはいえ、知っていること/知らないことは多い。


ここで矛盾が生じて自分でも驚いている。
「他人と比べても好き」ということには、知っている情報量や世界観構築まで落とし込むことなどの考察の過程が必須だったはずだろう?
それなのに、テニスだってポケモンだってドラクエだって、知らないこともある。でも「わからないことはわからない」という割り切りができて好きだといえる。


じゃあ逆に割り切れないのはなんだ?
「バボラ」テニスのメーカーである。確かに好きだけど、情報量が著しく少ない。なので自信をもって好きとは言えない。
「ゲーム」会社に勤めているから、好きではあろうけど、世の中のゲーム好きの情報量/プレイ体験の多さには到底追いつけない。だから知っていることが少ないので自信を持って言えない。
FGO」ゲーム作品である。これもどこまでも深い世界観の浅瀬しか知らないから重課金者、7年プレイ継続者に比べると知っていることが少ない。



ここまで考えてみると、「知らない」ということが「好きだと公言できない」ことに関わってくる。
では「ポケモン」と「FGO」の「知らないこと」の差というのはなんだろう?


ひとつには要約できるかどうかだろう。
単純に物語を通して知っており、展開をきちんと言語化できることにある。
これと関わる点で「世界観構築」という言葉を言い換え、「作品哲学への理解」というところにあるだろう。つまりどんなところが「好き」なのか。これときちんと向き合ってきたかどうか。きちんと考える時間を作ったかどうかである。


「Aが好き!」
「どこが?」
「それのどこがいいの?」
これに答える用意ができているかどうかである。
堅苦しく言えば、「好きである根拠を明確にできていること」なんだろう。
テニスプレイヤーの、ドラゴンボールの、ポケモンの、ドラクエの、好きなポイントはある。
バボラの、ゲームの、FGOの、好きなポイントはぼんやりしている。


好きなはずだけど、たぶんまだ向き合う時間が、どっぷり沼に浸かる時間が短すぎるのだろう。



好きであるならば、勝手に沼に浸かってしまうものだ。
それができていない以上、好きだと公言するのは憚られる。
好きなことを好きと胸を張りたいのなら、きちんと向き合う時間を作ることだ。
「好きなら知るべきことだろう」という後回しにしていることがある。その引け目というか、気後れというか、そういうのがあるうちは「好き」ではないのだろう。


好きならば、沼に喜んで飛び込むべし。それで人生を振り回せるなら最高じゃないか。
だって好きなんだもの。

〈1394.読書感想文〉

8月13日。


ほぼ連日投稿といってもネタがないことには変わりない。
せっかくなので、夏休みだし読書感想文にしよう。



「啓蒙書を読んで」


啓蒙書というのは大抵うさんくさい。こうすれば幸せになれる、こうすれば仕事がうまくいく、などなど。
ともすれば怪しい宗教の経典と大差ない。
出版年が今年の啓蒙書は読む気にはなれない、肩書きがうさんくさい人のものは読む気になれない、などなど、読まない理由はいくらでも挙げられるが、逆にちょっと気になっていた本がある。
「人を動かす」というカーネギー氏の本である。
1936年に初版が出版されたらしい。それがいまでも読まれているというのはなかなか不思議である。
そこで今回、職場の上長におすすめされたので読んでいる。


結論から申すと、すべての啓蒙書の原典である。10冊くらい他の啓蒙書も読んだことあるが、言っていることはカーネギー氏の主張と同じである。「人に優しくあれ」。そこについて非常に例示を多く詰め込んだのが本書である。


1920年代から50年代まで活動された方で、作家や教師、対人スキルのコース開発者らしい。
本文中に出てくる様々な例示は友人・知人の例示が多く、またリンカーンルーズヴェルトなど歴代アメリカ大統領の行動についても言及するなど、博学であったことがうかがえる。
そんな例示もすべてカーネギー氏の主張の補強に使われるわけだが、その主張はいたって凡庸で「情けは人のためならず」である。情けをかけることは、めぐりめぐって自分のためになる、という話である。


セールスマンで自分の持っている商品を売りたいときは、商品の良さを訴えるより相手の悩みを聞くことにあるという例示がある。結局お客さんは、自分に最大の関心があり、相手がどうしたいのかについてはまったく関心がない。
だからこそ、悩みを聞き、お客さんを丁重に扱うことでお客さんは自尊心が保たれる。これがコミュニケーションを始める糸口になるわけだ。
そして、相手が興味を持つように話題を選択するなど、様々なテクニックが紹介されるが、すべては「相手ベース」であることに他ならない。
究極的に相手に寄り添うことが、相手を動かす唯一の方法である。


僕が大きな影響を受けた本としては、水野氏の「夢をかなえるゾウ」があるが、これも「人を動かす」同様、まわりを大事にすることが自分を大事にしてもらうことだという話を物語調でまとめたものである。
「人を動かす」は面白いことには面白いのだが、アメリカの20世紀の話題であるので理解できない例が多くて退屈に感じるところがある。
そう考えると、21世紀の日本人が書いた啓蒙書でも大差ないように思う。
なぜなら、結局「成功したい」と思うならば、「良い人になる」のが最大の近道であり、「良い人になる」ためには「他人に優しくある」ことが社会生活をするうえでは必須条件だからだ。その文言や例示に差こそあれど、どの「売れる」啓蒙書でもそこを触れてはいる。


気になるのは、そういうのとは違う角度の啓蒙書があることである。
例えば「嫌われる勇気」で扱われるアドラー心理学では、自分の幸せのためには他人と自分とを切り分けて考えることが根本にある。無理に自分の想像通りに進ませようと躍起にならないことが幸せになることだという教えである。
極端に言えば、カーネギー式が「相手のために」であれば、アドラー式は「自分のために」である。
どっちも正しい側面があって、人によって適する適さないというそれだけだと思う。
しかし、この相反する主張がどちらもメジャーになるのは非常に興味深く思う。
今後は啓蒙書を読むときに、自身がどうなりたいか、という視点ではなく、なぜこの本が人気なのか、そこにはどんな人の欲望があるのか、ここの視点から考えてみたいと思う。



読書感想文は以上。


先日、Twitterアドラー心理学は鬱には適さないという話があって不思議に思った。
どうやらアドラー心理学を自己責任論と捉えることでさらに悪化するらしい。
しかし、僕は「そういう世の中だから仕方ないね、自分のせいじゃないね、自分のできることをやればいいね」というようなマイペースな教えだと感じた。


しかし、こういう感じ方ができるのは、僕が健康な状態であり、鬱のような特定の状態ではないからこそだろうと思う。
今回のカーネギー氏の主張も、健康状態だからこそ、そうですかと軽く受け取れたわけだが、これがメンタルをやられているときに読むと違うように解釈ができるのだろう。


ということで、結局啓蒙書というのは、読み手のメンタル状況次第でどうとでも受け取られてしまうのだろう。
ありがたい教えというのも、教徒がいなければ経典にはならないし、全員が全員教徒になるわけでもない。
売れているから正しいというわけでもなく、自分がどうしたいのかについての壁打ち相手的な本を見つけられればそれでいいね。


結論:啓蒙書100冊読むより、親友一人作るほうがよっぽど価値があるよ。

 

 

次は8月16日予定です。

〈1393.再開します〉

8月12日。


週一投稿に変更しておよそ一カ月が経つわけだが、あまり良いことではないように思えている。
ということで、2日に一度の隔日投稿、あるいは毎日投稿に戻そうと思うしだいです。
週一にして得るところより失うところが多い気がするのです。



そもそも、1400ちかく連日投稿(という体)ができたのは、少数ながら毎日来てくれる人がいる、というモチベーションに他ならない。
そしてルーティンワーク的に話をネタを探すというのも結構いい勉強になっていたことを、やめてから感じ始めた。


特に仕事を始めてからというものの、学生時代の時のように時間が溢れるほどあるような、のんびり考える時間を確保できない。
これは考える力が衰えるのも早くなるような気がするのよ。
そして週一投稿に変更してからは、当然来てくれる方も激減である。


このままでは週一投稿はおろか、途絶えるのも秒読みだと感じた次第である。
ということでほぼ毎日投稿という体での投稿を再開しようと思う。



再開に至って、ちょっと刺さっていた言葉がある。
かつて、だいちに俺はいつまで毎日投稿するのだろうかとぼやいた時に「死ぬまでだ」と即答されたことにある。
もちろん、それはボケだったり、特に思考もないような発想かもしれない。
なのに、この言葉が週一投稿の判断をするときも、判断後の寝る前や風呂場でよみがえってくる。


純粋にうれしかった。読む読まないは問わずとも、毎日投稿していることを認識しているという事実がうれしかった。そしてそれがこれからもだと疑いもなく言ってくれたことがうれしかった。


そして僕の特技が忍耐力にあることだ。
この積み重ねた投稿になにか意味を見出したいのかもしれないけれど、それ以上にルーティンワークを失うことはメンタル的に欠陥が生じるような気がしている。
自分のとりえを自ら消滅させるような、そんな選択だったという恐怖を感じているのだ。
つまり、どんな形であれ、毎日投稿することに、僕にとっては意味があることなのだ。



一種の呪いである。
なにか毎日文字にしないと僕は僕でなくなるように感じる。
これからはネタがあればテーマについて考察を深めるなり、好きな話を永遠に文字にしてみるなり、見た話の感想を書くなり、創作小話を書くなり、もっとなんでもありにしてみよう。


なにもしないより、なにかしてるほうが生きてる価値があるような気がしてくるじゃないか。

〈1392.夏休みを振り返る〉

8月7日。

 

投稿しようとはしてたんですが、酒飲みすぎて記憶吹っ飛ばしたので、夏休みに入った8/10に遅れました。ゴメンなさい。

 


去年の夏までを考えると、この時期は夏休みだった。
小中学生はもちろん、高校も大学も夏季長期休暇である。
とはいえ大学・大学院なんて年中夏休みみたいなもので、ずっとぐだぐだやっていたように思う。


それが会社員になって初めて迎えるお盆休みは1週間。
1週間あるだけでもありがたいのかもしれない。しかしこれまでと比べると、実に1/5だったり1/8だったりする。
これまでの夏休みを有効活用したことはあったかしら。
そう考えると、1週間でも十分な気がしてくる。



小学生のころの夏休みは、宿題をすっぽかして親戚の家でテレビ見たり、農作業を眺めたり、プールにいったりとそりゃあまあ遊んでいた。
両親共働き家庭なので、どこか遠出する、という記憶もあまりない。一泊二日で海とか軽井沢とかは行ったかしら。
特別強烈な思い出があるのは、中学以降であろう。


部活で試合やら練習試合やらでぶっ倒れそうなカンカン照りの中、テニスコートに立ったものだ。
テニス部というのは、他の部と比べて不思議な在り方をしている。
いわゆる中学生大会・高校生大会のほかに、「ジュニアの大会」がある。むしろそっちがメインで動いたりもする。
というのも、「ジュニアの大会」もインターハイのような全国大会があり、有利に勝ちあがるためには「ポイント」を稼ぐ必要がある。
そして「ジュニアの大会」というのは、規模の大小・主催の違いがあれど、毎週末どこかで大会がある。
夏休みは、中高生の大会とジュニアの大会とで、関東中を転戦するのが毎年のことである。


毎週勝った負けたの本番の試合をこなすんだもの、そりゃあ良いメンタルトレーニングにもなるわな。
このころの成長というのは、単純にテニスの技術はもちろん、メンタルの成長があったと思う。



問題なのは大学に入ってからだ。
夏休みの長期休暇を無駄にし続けた気がする。
サークルで遊んだ後はバイトに行き、家ではだらだらと際限なくパソコンに向かう。
英語の勉強をしようとか、将来のために本を読もうとか、目標だけ掲げて終わった日々である。そして終わり際に自己肯定感が削られて死にたくなって迎える後期のガイダンスである。


よくあるけれど、時間的余裕・精神的余裕があると、凡人はなにもしなくなるのだ。
中高生の時のように、毎週末試合が待っている逼迫した状況だと成長せざるをえない。
高校の模試もそうだろう。夏か秋かに連続で3つくらい受けた時がある。あの時は死ぬほど単語帳やら問題集に向かったと思う。


つまり、一週間でどれだけ成長ができたかを問われる今の状況のほうが、凡人には適しているように思う。



さて、じゃあ会社員になってなにを成長しようというのか。
簡単な話、昇進するためのスキルをつけることであろう。
それがなにかと問われると、学生と違って「人間力」とでも言えるのが会社員の難しいところである。


もちろん仕事によってはスキルが直接反映されるものがあるだろう。
プログラミング技術、資格などなど。
そこはやればやるだけ良いだろう。というか時間がものをいうところがデカいだろうし。


ただ、技術力だけで昇進できるわけじゃ無さげだろう?
コミュ力やらゴマすり力やら、そういう「総合的な力」とでもいうような曖昧な奴を伸ばさなきゃならない。


これの答えはもう一つか二つしかないように思う。
読書と考察である。
本を読む(小説・専門書問わず)というのは、発想力を育てることもできるし、多角的な視野をつくることも可能である。
それを読んだ後に、自分流にまとめあげたり、発展させることが考察である。これができて初めて自分の力になる。
要約すれば、インプットとアウトプットに他ならない。



大学時代にやっておけば良かったことといえば、どんなものであれ、好きなものを見つけることであろう。
既に好きなものがある場合でも、未知の中に自分の得意があるかもしれないわけで。
それを見つけるためにも、書店員がお勧めする本やTVで紹介されている本、Twitterで話題の本を乱読することに尽きる。


そして、一週間という長いような短いような在り難いお盆休みを乱読に使うことで、失った大学時代の夏休みを取り返そうというのが今年の目標である。
目標は4冊である。色々と遊ぶ予定を入れてしまっているわけだが、不可能ではないだろうし、それくらいはやりたいものだ。


本にふける夏休みも悪くはないだろう?

〈1391.命の輝き君〉

7月31日。


僕がコロナで寝込んでいる間に、同郷の親友が結婚報告のLINEをくれた。
こちらのカップルであっちに遊びに行った時、あっちもカップルで出迎えてくれた。それくらいには親しい間柄である。
結婚式は年末を予定しているとか。めでたいもんだ。


大学院の同期は今4年目だったが、途中退学でフランスの大学で修士に入りなおすらしい。
他の同期はイギリスにいくやつもいる。


不思議な時期ではあるが、親しい人たちが門出を迎えているらしい。
だいちも転職することになっているし、25歳というのはひとつ大きな変化の時期なのかもしれない。
なにか焦りというか現状への疑問というか、そういう気分になったりもする。
せっかくだ。俺も仕事じゃなくて、俺のためにきちんと腰を据えてみよう。



大学に入学した時の気分を思い出す。
自分の希望のもと選択したキャンパスで、ガイダンスを聞き、受講できる授業一覧を見ている時。
自分のこれからは、まさに自分の手のひらにある。これから決定する授業で自分の未来が決まってくる。そしてその先で世界の未来の一部が決まっている。
受講した結果、自分の未来が決まったかは謎だが、あの時の僕の魂の輝きぶりは果てしないものがあった。
なんでもできるさと言わんばかりの勢いもあった。


海外に出ていく同期もきっとそんな輝きを帯びているだろう。
結婚した親友も家には「嫁」がいるのだ。人生がきっと美しい色をしていることだろう。
転職するあいつも、頭のどこかで期待に溢れていることだろう。


ああ、なんとうらやましいことか!
仕事に慣れてきたことで、僕の魂はそんな輝きを放たなくなってきている!これは楽しいわけがない!
もっと輝けるだろう!もっと美しくなれるはずだろう!
自分の人生が自分の中に確実にあって、もっと高みを目指している、そんな瞬間にこそ輝く「なにか」を失うのはあまりにも早い。



啓蒙書を読むと、なんとも根拠が薄弱で独りよがりな論説だろうと呆れかえることもあるけれど、その本の中にある光り輝くなにかには、妬みを感じることもある。
本を書いてしまうくらいに、著者にとって心揺れる衝動があったという、その事実が妬ましい。


だいちに転職について本を書けと言えば、たぶんなにかしら書けるだろう。旧友に結婚の意義を問えば一日中語ってくれるだろう。フランスで、イギリスで学ぶ理由を聞けば、1万字のインタビュー記事が出来上がるだろう。
心揺れる衝動というのは、ある種のリスクを背負った時にこそ得られるものだ。
おれは就職することで安定を手に入れてしまった。衝動を得るほどのリスクを背負えていないのだ!



簡単にリスクといったが、じゃあリスクってなんだ。
結婚のリスクは?自分の自由が制限されることかもしれない。生きることの責任が一人のものでなくなることかもしれない。
転職のリスクは?新しい職場とのマッチ度が未知数なことだろう。ブラックを引いてしまうかもしれないな。人間関係が難しくなるかもしれない。
留学のリスクは?慣れない環境というのはそれだけでも未知数だ。言葉の壁、治安の壁、お金、日本での安定をかなぐり捨てての挑戦である。


しかし、それは結局第三者だからこそ目についてしまう不安でしかない。
当の本人からしたら、そんなリスクを取ることより、そこで挑戦しないという選択肢がない。そもそもリスクだと思わないことだ。
リスクがあると言ってためらっているうちは、多分違うのだろう。


「いのちのかがやき」というのは、そういうリスク換算をしなくなった瞬間に得られるものであろうよ。



血が全身を「ミャクミャク」と駆け回るような、そんな瞬間を味わいたい。
血肉湧き踊るような感覚。
あれはやっぱりギャンブル的な「賭け」の瞬間にあるものだろう。
手に入れたいのってなんだろうね。