ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈1401.親愛なる弟へ〉

11月12日。


ようやく大きな仕事が一区切りできた。
久しぶりにアホみたいに酒も飲んで、明日からは片づけをのんびりやって、次の仕事に取り掛かる準備を始めようか、なんて考えていた寝起きのこと。


数カ月ぶりに親からのLINEが来た。
17歳の愛犬が死んだそうだ。



仕事を終えて実家に帰ると、いつものところに寝たまま君はいた。
触ればあかい毛はまだ柔らかい。
やっぱり体は固くなっていて動かない。目を開くこともなかった。体のまわりには保冷剤が置かれている。
でもいまいちよくわからない。
死に際を見ることができなかったからか。すぐにでも起き上がってふんふん文句を言い始めるんじゃないかと思うほどだった。


それが火葬場で蓋を閉められてしまうとさみしさに襲われた。
小一時間経過後に、小さい箱になるとようやくそこで悟った。もう二度と君に会うことはできないようだ。
写真や映像で残っているものの、確かに君がいることを実感できるものは何一つ無くなってしまった。
頭の中のぼんやりとしたおぼろげな君の影があるだけだ。

それが死別の一番悲しいところみたいだ。



17年前、家に泥棒が入った。僕は運良く隣の家に遊びに行っていた雨の日だった。
それから数か月後、番犬として君は迎え入れられた。秋口だったと思うけど、やたら暑くカンカン照りだったと思う。
番犬というにはあまりにも幼く、むしろ守りたくなる玉のような子だった。
当時小3の僕は、空き巣の意味もよくわからないし、ただ君が来てはしゃいでいただけだ。

小さい庭は君が掘った穴だらけだし、自由奔放でべったり懐くような様子もない。
数年後にもう一匹の赤ちゃんが家に来た時にはすっかりおとなしいクールガイになってしまった。


時々君と歩いた畑の中の散歩道。
残されたもう一匹の妹と歩くと、君も僕も幼かった記憶がぼんやりと湧いてくる。
たびたび散歩中に逃げられて、親を呼びに帰って畑の中を探し回ったこともある。君はけろっとした顔で目の前に帰ってきたような気がする。
そういうやつなんだ君は。

そうなんだけども、宅配便のおっさんにも親戚の人にもちゃんと吠え続けてくれた。
立派な番犬だった。
かわいげはなくて、なんかプライドはあるオスだった。
弟というより、うるせえ旧友みたいなところがあった。赤ちゃんだったのに、しれっと大人になった。悟ったみたいに遠くを見ていた幻影が見える。でもまあ、僕の大事な弟だ。


散歩で畑の中を走りまわることもないし、引っ張られることも引っ張ることもない。
ふんふん文句を聞くこともないし、宅配便のおっさんに吠える声もない。
あかい柔らかな毛も、獣臭さもない。


まだもう一匹のかわいい妹がいるのがまだ救いなのかもしれない。
君が記憶の中だけになるのは、どうしようもない寂しさなんだぜ。



群馬の片田舎で、特別旅行にいったともなく、庭とか玄関とかそんなところで大半を過ごした君は幸せだったのか。
残された僕たちは勝手に解釈するしかなくて、実際どんな気持ちだったのかを君に聞くこともできないし、答えてもくれなかっただろう。
というかそもそも、そんなことどうでもいいと君は鼻をフンと鳴らしてそっぽを向くだろう。


生きる目的とか意味とかを求めるのは、実際のところ些末なもののようだ。

あずかり知らないところで誰かがは生まれて誰かは死んでいく。
自分にとって意味のあることをしても、しなくても、他人にとってはまったくもってどうでもいいことだ。
どんなことをしたところでこの世はこのまま続いていくし、どこかこの世が終わるときにはきっとなんにも残らないだろう。
自分のことを特別に思ってくれる人にとっては存在するだけで幸せで、それが唯一意味のあることなんじゃないかと思う。



僕にとっては、家族にとっては、君はなにものにも替えの利かない、唯一の存在だった。
君がいたというその記憶があるだけで、それで僕は幸せである。だからこそ、いなくなった今はさみしさでいっぱいだ。
このさみしさに慣れて疲れた時に、きっと全部幸せな記憶になるんだろう。


どうか安らかにねむってくれよ。
17年間我が家で生活してくれて、家を出た僕の代わりに家を守ってくれて、本当にありがとう。

〈1400.日記のすすめ〉

10月11日。

 

人間の悩みはすべて人間関係に由来するとかいう言葉があるそうな。すべてというのは言い過ぎな気がするが、大半がそれだというのはわからんでもない。

 

悩みというのは問題とは違うわけで、解決策がない、あるいは答えを得ようとはしていない状況らしいです。

 

芦田愛菜さんだったかな。悩むのと考えるのは全く別物だと言っていた気がする。

答えや真理を追い求めるのが考えることで、悩むというのは決断しきれない心理状況のことだとか。

 

例えば、岡島のようにとあるものに縛られていることについて、答えを求めるつまり考えようとすればそれをどう突破するのか方法を考えればいいわけです。岡島はその方法をとり、きちんと向き合って偉いですねということになる。

それが「悩む」というのは、縛られている状況が嫌だなぁでもどうしようもないよなぁ、と一歩踏み出せていない、決意に欠けた状況のことである。

 

前置きが長くなりました。

悩むというのは仕方ないことも多いと思う。特に若かったり、新しいことを始めたらそりゃそうだ。というのも考え方がわからないんだから。

となれば、考え方を示してもらうことが第一歩だということですね。

 

 

ちょうど僕が悩んでいたのはキャリアのことです。

成し遂げたいことがひとつあるけれど、それを実現するためには何をどうしていくことがよいかと、考える枠組みを得られていなかった。

 

そして、1番簡単な解決方法として先輩社員を召喚した。誰でも考える簡単な方法。

そして、その人が考えたことを聞き、それを一つの枠組みとして考えることにしました。

 

これが、例えば読書でもいいし、記事を読み漁ってもいいし、知恵袋で助けてもらってもいいかもしれない。

無知の知というかっこいい話ではないけれど、自分が思考枠組みが足りていないと判断したら、なりふり構わず追い求める。

これが悩む時に取るべき方法だと改めて実感したわけです。

 

 

悩むというのは非常に心の健康に悪い。悩んでいたせいでこの2週間くらい寝つきが悪くて仕方なかった。

考え方がわからないということに気がつけていなかったということだ。

 

それが、ふと先輩にメールを打ってみようと送ってみて、ほんの数十分話をしただけでスッキリ爽快なんだからなんとも単純である。

 

これは良い学びであった。

自分が悩み始めたと感じるためには、現実逃避とかストレスとか、なにかマイナスな気持ちになった時である。

それを解決するためには、自分の中にはその方法がないので、とにかく行動を起こすことだ。

 

悩んでいても仕方ないけれど、悩んでいることに気づかない。

気づくためには、絶えず自分の気持ちと向き合い続けることである。

 

そのためにも、日記とかは良い文化であろう。

もやもやに形を与える良いきっかけである。

 

みんなもやろう。

たまには更新、行進、交信

お久し鰤🐟

 

体の関節からバキバキ音がするみっきーです。

 

先日長期にわたって取り組んでいたことがひと段落し、少し気分が楽になりました。

 

やっと終わったという気持ちと共に、少し寂しい気持ちもありつつ

 

といっても、あの生活を二度としたくはないけど笑

 

これでようやく、自由に時間が使えるようになり、私のBリーグ2022-23シーズンが開幕したわけで

 

今シーズンは贔屓チームのチーム編成予算が昨年の1.7倍になったため今までの比にならないくらい良い選手が来てくれました。

まあ、1.7倍になってようやくB1の平均ぐらいになったんだけどね。

 

もともと外国籍選手のスカウティングがリーグトップクラスのレイクスが平均的な予算でどんなチームを作り上げるのか楽しみですな

 

今のところは、前評判があまり良くなかったテーブスが爆発してくれて大満足かつ、これからキーファーとテーブスのダブルガードがどこまで日本のリーグで通用するのか楽しみ

 

船アリで生で観戦するのが楽しみ

 

きたえーると沖アリとゼビオも行きたいな

 

 

と、まあ時間に余裕ができた瞬間すぐにこんなこと考えるわけで

 

余裕なくても常に考えているけど

 

 

 

 

 

とりあえず腰治さないと

〈1399.公私の切り分け〉

10月10日。

 

この3連休、旧友が訪ねてきたりとかで、いまの自分の立ち位置を見つめるいい機会になった。
旧友は病院のリハビリを担当する仕事をしていて、一緒に楽天オープンをみていても体の使い方に非常に敏感にしていた。
大学卒業後に病院に勤めながら大学院で論文を出していたそうな。勤勉なやつだ。


ことあるごとに仕事の話題が出るくらいには、今の仕事に誇りをもっているようだ。
うらやましい、というのは語弊があるかもしれない。自分の仕事にプライドを持つのは素晴らしいことである。



仕事に誇りを持つというのはどういうことだろう。
まず第一に、自分がやりたいことができているというのは間違いないだろう。やりたくもない仕事のことをわざわざ休日に話すまい。好きなことだからこそ、話をしたいのだ。
次に、それが社会や誰かのために役立っている感覚であろう。自分の仕事がきちんと意義があるものであれば胸を張って紹介もできよう。


そして、個人的に感じる部分として。仕事ではない部分ときちんとメリハリができていることもある。一日のすべてが仕事であれば、仕事を全肯定しなければ自分が生きることを否定されかねない。誇りなんて持つ余裕はない。誇りがあるというのは、その対象に対して距離感をもって認識したうえでも有意義なものであると判定できるときに出てくるものであろう。
よくいわれる、仕事だけではなく、もうひとつの自分が生きるフィールドを確保する、という点であろう。
旧友の場合は新婚ということもあり、夫/旦那として、あるいは投資とかそういう部分で別の自分を確保しているようだった。



最近の自分の行動を考えると真逆であった。
例えばこのホウチガの更新ができなくなったように、残業時間も長くしており、それで自分がよくやっていると肯定するような虚しい毎日であった。
仕事が終わるのが21時ごろであれば、あとはご飯をたべて寝るだけである。仕事以外の勉強の時間を作る余裕もなし、効率も悪いものだ。


こうなると、勉強する時間もとれない、効率よく仕事もできない、でもそんなことを否定したら毎日が否定されてしまう、という負のスパイラルに突入である。
きちんと寝る、というのは当然だが、無駄な残業をせず、さっさと退勤して別のフィールドの自分を確保するのも大事なことであろう。



気分転換にカラオケに行くとか飲み屋にいくとか、そういうのは悪いことではないだろう。
ただ、問題を先延ばしにしているだけで気分が悪いことに変わりはない。
もちろん人間関係を考えれば、自分だけでは解決不可能なのですぐに問題を解決することはできないかもしれない。
それでも、自分で解決できる部分が解決できていなければ、現実逃避でしかない。


ドラゴン桜で確かそういう話があったと思う。気分転換したいなら、ひたすら問題を解くだけであるとか。気分転換をしても結局解決できない。問題を先延ばしにする罪悪感だけが残る。



仕事に対して誇りを持つことができなくとも、それで自己嫌悪に陥るのは現実逃避が発生しているからだ。
問題を明確化して、そのうえでその問題の解決のための行動を取っていれば、誇りはなくとも自己嫌悪にはなるまい。
そして、仕事と自分の人生を切り分けて考えることも必要だ。


それがこの2カ月間、徐々に欠如していった部分であると学びがあった。
明日もホウチガを更新できていれば、改善行動が取れているということだろう。

〈1398.問題提起〉

10月2日。

 

実に一カ月ぶりの投稿になってしまった。
待ってくださった方がいるなら、申し訳ない。忙しかったという言い訳をするまでもなく、忙しくはなかった。
数年ぶりに短編小説のコンクールに応募したり、個人製作のゲームを作ろうとしたり、なんだかんだぐだぐだしていたら10月になってしまった次第である。


もう投稿するのもいいんじゃないかと思っている矢先、色々と感情が沸き起こるタイミングがドミノのようにやってきた。
まずは楽天オープンである。



テニスファンなら間違いなくご存じであろう、3年ぶりに開催する楽天オープンの予選がこの土日に始まった。土曜日の予選、日曜日の予選決勝・ATPサンデーと国内トップ・世界トップの双方を堪能して非常に有意義であった。自分が現役だったころのスター選手、自分より若い全日本チャンプなどなど。自分のifでもそこには到達しないであろうに、170cm未満ながら2m近い選手をなぎ倒す様は感動せざるを得なかった。
世界二位のルード選手をはじめ、グランドスラムで活躍する面々も近くで見ることができ、何年ぶりかというくらいに満足であった。
そして、西岡選手は韓国で優勝である。
日本のテニスと世界のテニスの差を感じつつ、どうやってその差を埋められるのかと、やたら考えざるを得なかった。エキサイティングだった。



帰りの電車のことである。
会社の同期の、同じチームで頑張ってるエンジニア君がエンジニア系の予選大会で見事勝ち残ったという報告があった。
来月当たり全国大会があるとかないとか。とにかくすごいことであろう。
もちろん、若い人たちが出る大会だとかで、そんなの別にすごくはないとか言いたい自分もいる。しかし、こればかりは認めざるをえない。
うーむ。着実に成長している同期がいるということだ。



ちょっとシリアスな気分になって、逃れるような気持ちでスマホをいじったその画面に映った男。
イワサキケイイチさんというマジシャンだった。有名なゴッドタレントの番組でゴールデンブザーを獲ったすごいヒト。なによりナチュラルで笑顔でひとなつこい雰囲気。
ぶっちゃけそんなにうまくなさそうだけど、きっちり意思疎通できる英語力。そして群馬県出身。
調べてみるとホームレスしたり世界一周したりととんでもないヒトだったよう。
ショーの見せ方のウマさと、コミュ力とで会場を湧かせている。


なんともうらやましい光景である。



新人研修で手一杯になっているが、着々と世界はまわっているのだ。
悶々としている間にも、世界を目指してボールを追いかけまわしている。


このまま60年が過ぎれば僕は死ぬだろう。
有名になりたいし、ちやほやされたいし、お金も欲しい。
規模の大小こそあれど、追い求めるような理想の強烈な光景を見てきてしまった。
会場を湧かせる選手、同期、マジシャン。


こんなの見させられて、なにも思わないわけないじゃないか。



僕にとってのホウチガは、21世紀をどうやって一人の日本人男性が受け止めていたのかを残す場である。
いつかの歴史研究家が材料にしてほしいからこそ、文字にしているのである。
世界も、国内も怒涛の勢いで変化をしている。
この投稿しない一カ月は非常にもったいないことをしているかもしれない。


もう一度、毎日とは言わなくても、もう少しやれるとこまでやってみようと思う次第であります。
テニスかも、仕事かも、個人制作かも。なにかはわからないが、やれるとこまでやって死にたいと思いました。
もうしばらくお付き合いをお願いします。

〈1397.残業を経験すること〉

8月30日。


仕事は残業ができる。しかしホワイト企業なので、22時までに仕事を終えないとお叱りを受けることになる。
なので、ちょいと忙しい時期でも、ぎりぎりの21時45分とかに退勤することになる。


しかしながら、22時ごろに仕事を終えることがこんなにも厳しいことだとは知らなかった。
世の中の残業サラリーマンが鬱病になることもよくわかる。
そりゃあしんどくもなるさ。



僕は恵まれた仕事につくことができたので、業務内容に文句がないだけありがたいことなのだろう。
しかし、朝8時から22時まで働くと、仕事以外のことが何一つできない。
いや、当然のことだけどね。これは体験してみないとわからないことかもしれない。
リモートなので、起きてすぐにパソコンを起動する。そして昼に休みをいれて、ちょこちょこ飲み物を飲んだりして休憩は入れる。ただ、業務内なので心の底から休まることはない。
そして22時だと、ご飯を食べて風呂に入ると23時である。


勉強して昇進街道まっしぐら!とか考えていたけれど、そうも行かなくなった。疲れて寝てしまう。
しかも、たった一日・二日続けてこの生活をするだけでこうなる。
毎日していたら、そりゃあ頭の中仕事だけになるし、そうなったら鬱病にもなるさ。



「仕事をやめても代わりがいる、それくらい軽い気持ちで仕事に向かうべき。」
こういう言葉をネットで見かけるが、これは非常に危険な言葉であるように思う。
朝起きて、寝るまで仕事をするような人に、お前の代わりはいるぞ!というのはとどめの一撃になってしまう。
だって、解釈によっては、「それだけやってるお前が存在する意味はない!」という受け取り方もできてしまうもの。
実際、たった数日の残業だけど、これを表から否定されたらやめたくもなるだろう。残業することには理由があったり状況があるわけで。その結果、もちろん非効率な働き方をしているかもしれない。そこを一緒に解き明かすことが必要だぜな。


はじめて残業をすることで、そのことの重大さを思い知ることになった。想像では決して辿り着かないものだっただろう。



人間の想像力は非常に自己中心的である。
いくら相手の立場に経って考えようが、無理がある。ミーティングでの一瞬の発言でも、自己主張でも、こちらが腹が立つような発言の裏には、相手にしかわからない事情が必ずある。


一番手っ取り早いのはその立場に身を置くことだ。
研究職や職人の気持ちがわからないならその仕事に密着することだ。逆に営業マンのスポーツマンの気持ちがわからないなら一緒に動いてみることだ。
そういう意味でも、本の虫だけではなく、広く身を投じてみることが、相手への理解には重要になってくる。
そして、いろんな立場を経験して、その先には最大級の謙虚さがあるように思う。結局すべての人間が何かしらに関わっているから成立している生活であることが身に染みてくる。


もちろん、目の前の業務について、替えがきかないという話ではない。僕が残業して出した成果も、たぶん他の新人が出す成果と大差ないだろう。どんな仕事でも、スティーブ・ジョブズだって、替えがきいてしまう。
だが、それと相手の立場にそのままなり替わることは同義ではない。


目の前の小さなタスクに対する成果は替えがきくけど、それを積み重ね、一つの物語としての人生や人となりは自分だけのものである。
それがどんな人にもあることを念頭に行動すべきであろうし、そのためにも相手の立場を経験してみることであろう。


結構楽しいでな。

〈1396.全年齢対象への憧憬〉

8月28日。


CERO」という言葉がある。
ゲームの内容についての倫理規定を決めている団体のことである。そして同じ名称で倫理レベルも示す。
CERO:A」であれば全年齢対象作品、というようなイメージである。映画の倫理規定がわかりやすいだろう。


ゲーム会社に勤め始めて、ゲーマーが好きなゲームだったり、大人向けゲームであったり、選り好みせずに遊ぶようにしている。
そして自分もクリエイターとしての仕事を始めて、CEROの規定で販売方法・表現方法に大きく変化が出ることをはじめて知った。


やはり、全年齢対象というのは素晴らしいことだと感じる次第である。



クリエイターの視点から考えてみる。
倫理規定というのはわかりにくいところもある。
血の表現があればCERO:Aではなくなり、BやCという年齢制限や大人の指導が必要になる。しかし、スマブラCERO:Aであるように、殴る・蹴るという行動の表現をポップにできていればAになる。
後述するが、売り手や広報からしたらCERO:Aであるに越したことない。だが、「本来表現したいこと」に制限を加える必要がある。


これはかなり厳しいことである。
ゲームとしての側面を考えると、結局プレイヤーが気持ちよくなってほしいので暴力表現は最も簡単な方法である。
その表現がリアルであればあるほど「殴る・蹴る」の爽快感は増すだろう。
そしてクリエイターとして表現したい「最もかっこいい」「最も美しい」というのは、往々にして非日常である。
プレイヤーに爽快感を与えつつ、CERO:Aを守り続けるというのは、かなり矛盾する側面もあるように思うのだ。


人間が気持ちよくなるのは、全年齢対象ではなくなっていく、という話もできそうではある。



売り手や広報から考える。
ゲーム産業には「パブリッシャー」というゲーム販売専門の会社や部署がある。
その部門からしてみたら、倫理規定によって厳しい判定が下されるということは、つまり「市場を小さくする」ということに他ならない。
例えば、麻薬に関する話題が含まれる作品だと、当然厳しい「CERO:D」や「CERO:Z」という枠組みになる。
過激になればなるほど、狂信的に好むファンもいる反面、社会一般からは疎まれたり蔑まれたりもする。
「麻薬」という言葉が嫌いな人もいるだろうし、そういう人からしたらそんな作品を知りたいとも思わないだろう。
そしてそういう作品を開発をする会社、という認識も生まれる。


つまり厳しい査定が下れば、市場も狭くなるし、今後のファンに対する態度も気を付けなければならなくなる。
パブリッシャ―からしたら面倒だし、利益も望めなくなるかもしれないし、ちゃんとした理由がない限りは「CERO:Z」をやすやすと認めなくはないと思う。



しかし、個性を重視するようになっている世の中・ファンのニーズとしても、「CERO:A」よりも「CERO:Z」のほうが興味がそそられるだろうし、コアなファンがついてくれるほうが将来的な利益も望めるかもしれない。
つまり、会社/個人がどういうスタンスで仕事をしたいのか、というその一点に尽きる問題ではある。


CERO:Aは素晴らしい」という感想になったのは、とにかく僕の私見でしかない。
子供が楽しめる、というのは尊い情景であるように僕は思うのだ。


最近好きなゲームで「JUDGE EYES」というゲームがある。少し前の作品だが、キムタクが主人公ということで大きな話題になったゲームである。
ヤクザ相手にキムタクがばったばったとなぎ倒し、暗闇に隠された真実を追う探偵アクションゲームである。
確かに物語も面白いし、キムタクがおっかないヤクザをぼこぼこにするのは非常に爽快感がある。「CERO:D(17歳以上)」だからこそできる流血表現・過激な表現もある。


龍が如く」という有名な極道シリーズがあるが、その開発チームがつくった新シリーズが「JUDGE EYES」である。「JUDGE EYES」でキムタクが主役という話題があったことで、社会的な認知も広がり、おそらく「龍が如くシリーズ」の売り上げも伸びたんじゃないかと思う。
コアな客層向けであるものの、うまく他作品への流動も促す良い作品であるように思われる。



同時に2015年発売の「ポケモン超不思議のダンジョン」というゲームをやっている。
2005年発売の「ポケモン不思議のダンジョン」を思い出し、その最近の作品をやりたくなった。
やってみると当然「CERO:A」の通り、過激な表現はまったくない。むしろ小学校低学年から楽しめる、絵本のような話の展開であった。
20を超えた私がやれば、当然物足りないのだが、それでもそれはそれとして楽しい。
2005年当時はゲームクリアで泣いた気がするが、そういう人のコアになる部分は幼少期に形作られるのだろう。
やっぱり今回も非常にハートフルで、ゲームシステムに不満はあるけれど、それ以上に物語をはやく見届けたい気持ちでいっぱいである。


人の核に残るゲームってなにかを考えた時に、結局子供のころに遊んだ記憶やそれに近しいなにかを感じた時であるように思う。
確かに「JUDGE EYES」だってめちゃめちゃ面白いし、そういうものをつくっていたいとも思う。
ただ、「あなたが好きなゲームトップ3」を考えた時には出てこない。それよりも「ポケモン」が出てくるだろう。
つまり、僕としては全年齢対象のゲームとして開発し、子供に遊んでもらってその子のその人の人生に深く跡を付けてやりたいと思う。
そして、そういうピュアなところをターゲットにできれば、大人だってひっかかるものがあるはずだ。



これは完全に僕の主義でしかない。
とにかく多くの人に遊んでもらって、心の核になにかを残し、人生を揺さぶりたい。
そう考えると、「CERO:DやZ」のような過激な表現は、話題や映えにはいいかもしれないが、刹那的な消費でとどまってしまうように思う。
ピュアで汚してはならないものこそ、消費せずに残り続けるんじゃないか。
だからこそ、限られた表現の中で思考錯誤し、感情が極まる瞬間を作り出すことの素晴らしさを感じないではいられないのだ。


大衆受けする、というとネガティブかもしれないが、万人の心に響くからこそコアなファンも長く残り続けるコンテンツとも言えると思う。
あくまで僕はこどもに寄り添いたい。そういう方向でキャリアを進めるのがよろしかろう。



毎日投稿と言い出したタイミングで、仕事が忙しくなってしまった。
仕事を言い訳に継続しないのは一番したくないことだったが、ようやくその意味を体験できた。
今後のペースがどうなるかはわからないが、できるかぎりは投稿するつもりである。
男だけど二言・三言合って申し訳ない。