ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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善意で貧困はなくせるのか

 

「クヤ!ストップ!」

“クヤ”はタガログ語でお兄さんという意味である。僕よりも一回り上のドライバーはしばらくしてバンを路肩に止め、僕らに早く出ろという合図をした。

 

2017年9月 僕はフィリピンにいた。その日はじりじりと照りつけるような太陽とバケツをひっくり返したようなスコールのせいで朝からだいぶ滅入っていた。

廃品回収人の多くは比較的涼しい夜明けから仕事を始める。だから、にわとりがどこもかしこもうるさく鳴き出す早朝から僕らはインタビューの準備をし、バンを走らせていた。

彼らは、道路脇で大きな荷車を引くから見つけやすい。廃品回収人を見つけるやいなや、車から降りて話しかけ、インタビューの許可をもらいに行く。ロニエルはそんなインタビューをした回収人の一人である。黄色のタンクトップにポケットの一つがちぎれたズボンを履いている。裸足のこの少年はペットボトルがたくさん入った大きな荷車を引いていた。おそらく近くのゴミ捨て場からきれいなやつを選別して、これからリサイクル工場に売りにいくのだろう。ロニエルに許可を取った後、年を聞くと「14だ」と答えた。続けて、どうして働いているのかと聞くと「小遣いが欲しいからだ。週に2日だけゴミを拾ってジャンクショップで売っている。そしてそのお金でスナックやジュースを買うのだ。」と教えてくれた。彼の生活がもっと気になって、学校は行っているのかと尋ねた。すると彼は「うん、行っている。弟も妹も学校に通っている。」と答えた。

 

ここまで聞いて僕は少し肩を落とした。なんだ違うじゃないかと思ったのである。僕は心のどこかで彼は学校にも行けず、やりたくもない仕事をしているのだと決めつけていたのである。ロニエルはそうではなかった。少なくとも僕が日本から、ソファに腰かけながら眺めていたならば彼らはその通りだよ、と言っていた。テレビや本の中で見る彼らは誰もが想像する貧しい人だったに違いない。だが、現場ではまるっきり異なるのだ。

 

ロニエルは無理強いされているわけでもないし、スナックもジュースも欲しいときに買える。僕が彼と同じくらいの年にあって好きな時に小遣いを稼ぐことができるのならば、僕もペットボトルを両脇に抱えていたのかもしれない。

 

でも、言えることは確かにあった。ロニエルの周りにも、バンを停めた向かい側で水を売り歩くおばさんの周りにも、お金がないという貧しさは、ここに存在するのだ。

 

貧困という普遍的な事実は普遍的なカタチですべての人にあてはめてはいけない。いま現在こうやってブログに昇華させることができただけでも少年の話を聞いて肩を落としたバカ野郎の贖罪となっただろうか。それもこれも最近ある二つの本に出会ったおかげである。バナジー&デュフロの「貧乏人の経済学」そしてカーラン&アベルの「善意で貧困はなくせるのか?」

 

貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

 

 

善意で貧困はなくせるのか?―― 貧乏人の行動経済学

善意で貧困はなくせるのか?―― 貧乏人の行動経済学

 

 

バナジー、デュフロ、カーランはみな経済学者であるが経済学の知識は全く必要としないのでぺらぺらと読み進めることができるだろう。(集中と気力が3分しか持たない僕の頭でも理解できたのだから間違いない)

この二つの本はある点で共通している。というよりカーランはデュフロの一番弟子だし、共通点がないことのほうがおかしいのだが。それは、貧乏な人たちがどのような暮らしを送っているのかについて、彼らと全く同じ目線から貧困問題とそれに付随する人間の行動と意思決定の底の底にあるものを冷徹な脳と温かい心によって見つけ出そうとしている点である。冷徹な脳とはどういうことなのか。彼らの本の中にはあるキーワードがたびたび登場する。RCT(ランダム比較対照施行)という言葉である。このRCTというのは因果関係を評価する方法、つまり貧困問題を解決する上で必要な道具の一つであると捉えても構わない。このRCTは貧しい人々の末端まで届く最善のプログラムは何なのかをあぶりだす道具なのである。例えば、ある地域で村人が正しく医療を受けられるようにするために、看護師の勤務態度を是正した。看護師が診療所に常に在中していれば村人も治療を受けやすくなるだろうと考えたわけである。どうなっただろうか。ここで効果を確かめるために客観的な評価を下すのがRCTである。デュフロやカーランはRCTから得られた結果から何が最も効果的なプログラムなのかを客観的なプロセスで問うのだ。果たして、村人は訪れるようになったのか?看護師はきちんと勤務を行うようになったのか。この答えはぜひ本を読んで見つけてほしい。きっと驚くだろう。

 

温かい心とは善意のことではないのだと、二人の本から教えてもらった気がしている。温かい心とは、車が巻き上げた砂埃を喉の奥でザラザラと感じながら、灼熱の太陽の下で汗と土でぐしゃぐしゃになったバインダーと鉛筆を片手に、眉間に皺を寄せ貧しい人々の話に注意深く耳を傾ける崇高な精神のことである。貧困とはどんな匂い、どんな味、どんな手触りかを知る必要があるのだ。フィリピンに乗り込んだバカ野郎には温かい心は少なくともあったとしておこう。だが、問題を解決できるだけの冷徹な頭脳はあるのだろうか。今の自分にとって必要なのは、そしてこれからの人生の基盤としたいのはビジネスやセールスではない。一歩外に飛び出した先にある確かな現状とそれに対処するために必要な先人の知恵と教え、そして貧困問題に対して同じように考え、向き合う人との出会いである。そういう風に今から歩めたら万々歳なのだ。f:id:moji-village:20190128210623j:image