ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈139.意見を言う人へ〉

今日は少しヘビーにいこう。

僕の人生の一部だ。

 

 

実家でくつろいでいた時のこと。

おそらくお昼のニュース番組で、虐待する両親について取り上げられていた。当然ながら、両親を批判する流れだし、なぜ起きるのか止められないのかとコメンテーターが長々と持論を述べていらっしゃった。僕は昔からニュース番組は嫌いだったので、その日もコタツから出て、台所で牛乳を飲むことにした。

 

母親がテレビを消し、いそいそと夕飯の準備を取り掛かるために、私の隣へ来た。台所は母に譲り、近くの椅子に座った。若干過保護な母親はさっきのニュースが相当頭にきていたらしい。牛乳をちびちびやっている僕へ、なぜ虐待をするのか、暴力をふるう父を母は止められないのか、とうとうと語っていた。

 

ここにもコメンテーターがいるよ。めんどくさいなあと思いつつ、血族に批判者がいるのが少し嫌だったので、軽くたしなめた。

 

すると、母親はえ?というような表情になった。虐待賛同派なのか?というような表情だ。

そうじゃあない。

 

私も当然ながら、虐待なんてもってのほかだし、暴力がこの世からなくなればいいと思っている。

だからといって、今回の事件について、僕は"批判する権利"を有していないのだ。

 

私は幸いなことに、僕の器以上の愛情を注がれてぬくぬくと大人になってしまった。社会に蔓延る暗闇というのを大して知らない。そんな私が、公然と暴力をふるってしまう状態に陥っている人を批判できない、というだけだ。

動物でありながら、曲がりなりにも理性を発達させ、法治国家となった日本では、幼少期から暴力は否定される教育がなされるはずになっている。少なくとも、小中学校の道徳という授業がある限りは、公にそう教育がなされている。だが、手が出てしまう。

"人を傷つけてしまう。"

 

これには、二つの場面に分けられると思う。

一つは物理的に正常な判断ができなくなった時。飲酒が一番わかりやすいだろう。もちろん、正当防衛なんかもこれだ。外側から直接的に暴力をふるう要因が揃ってくる。

 

一方で、内的要因があると思う。それが、その人の心であったり、そこまでの人生が暴力という結果をもたらしてしまうのだ。

もちろんこの二つは完全に分けられるものではない。お酒を飲んで殴る奴はきっと飲んでなくてもいつかは殴るだろう。

 

つまり、現代日本で手が出るという状況を生み出すのは、なかなか異常事態なんじゃないかと思う。虐待をした両親も、きっとその両親に器以上の愛を受けた事はないんじゃないだろうか。逆に受けすぎて、社会に適合できなくなったのかもしれない。

 

結局のところ、メディアが提供する情報程度では、わからないのだ。暴力を受けたことがない人からは想像に過ぎない。暴力を受けた人だったとしても、事件を起こした人の心理状況は誰一人としてわからない。

 

だからこそ批判できないのだ。それを、例えば犯罪心理学のプロの方や家庭裁判所の関係者が意見を述べるのなら私は不満に思わない。かつて虐待を受けた方が、意見を述べるのならむしろ声を大にしてほしい。

しかしそれは、批判ではなく、意見なのだ。

 

意見を言っていいのは、その事柄について人生を背負える覚悟がある人だけだと僕は考える。だから、虐待を批判する母は無責任の塊に見えて嫌だった。

 

 

ここから一番大事にしていることだ。

 

 

だからといって、意見をするな、というわけではない。建設的な意見を出すべきなのだ。そしてそれは他人事ではなく、自分事として考えるべきなのだ。

your businessではなく、our businessなのだ。

 

建設的な意見を出すためには、きちんとした根拠、意見を実行した時の効果、実行しやすさなどなど、いろんなことを考えなくてはならない。人生を背負った人なら間違いなく通る道だけど、そうでない人も一緒に考えなきゃならない。他人事じゃない。社会で生きる限り、巡り巡って僕らのせいなのだ。

 

批判の矛先は自分に向けてみると新しい発見があるだろう。

かくいう私も批判をしがちだ。特に親しい間柄になればなるほど甘えてしまう。きつい言葉、厳しい内容を渡してしまう。難しいけど毎日の、小さいことの積み重ねなんだな。省エネと同じだ。

 

この意見をなぜ僕は公に晒すのか。僕の人生を背負ってこの意見を言っているからだ。