ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈158.読まないほうがイイかも〉

今日は書きたいことが3つあったけど、結局好きな話をすることになる。というのも話の作り方についてである。

 

ゲームや漫画、小説あるいは映画でもかまわない。登場人物、しかも物語の主軸に関わる重大な人物が死ぬ時を考えてみる。老衰ではなく、他殺。

多くの場合は嫌なほど丁寧にあるいは時間をかけて描かれてしまう気がする。小難しく考えれば、効果的に印象付けるため、というのもあるんだろう。

ただそうではなく、主人公や関係者が何度も何度もその人が殺された事実を考えてしまった結果、主人公たちは見てないはずなのに、本当に鮮やかに描かれてしまう。それもひっくるめて、丁寧に描くことがリアリティを感じさせることになっているのだろう。

 

幸いなことに、僕は身近な人が殺された、という経験がない。なので、仮に殺されてしまったら、ということを考えてみることがある。両親かもしれないし、親友かもしれない。できれば考えたくないけれど、考えなければならないことだと思って。

僕が高校生の時に見たドキュメンタリー映像。そこで取り上げられていた、戦火にいる男の言葉がどうしても忘れなれない。

 

"私の妻、子どもは殺されました。でも私は復讐しない。してはいけない。相手にも殺さなければならない理由があったから。そして真の平和とは全てを凌駕する寛容によってのみ産まれるから。"

 

これを聞いてから、時々ふとその立場に置かれたことを考えてみる。僕は寛容になれるだろうか。本当の平和を求められるのだろうか。

しかし、一度も寛容な気持ちで現実に帰ってこれたことがない。悲嘆に明け暮れるか、復讐心に支配される結末だ。

 

つくりものを見た後も同じ感情になる。サスペンスみたいに、なにかしら明確な動機があって殺されたのなら、文字通り泣き寝入りする。しかしそうでない限りどうも許せない。つくりものは尚更だ。加害者が完全な悪として描かれやすい。どうすれば被害者が報われるのか、このもやもやを晴らすには加害者をどういう場に追い込めばいいのか、一晩中考えることになる。

 

これがダメなのか、仕方ないのかは判断はお任せしましょう。

もし、僕がなにか物語を書くとしたら、他殺は描けないと思う。描きたくもない。もし描いたとしたら、そこには何かしら生きる死ぬ、殺す殺される以上に深い何かを求めた結果なのだろう。こちらの都合で死んでもらうのは絶対に避ける。

 

ん?待てよ。だとしたら、いままで見てきた死亡シーンは、監督やら製作者の深い意図があるということか?

うーむ。ちょっと見てこよう。なんで第1章で主人公の上司は殺されなければならなかったのか。あんなにいい人なのに!くそっ!深みを持たせるとかいう平べったいのは聞きたくねぇんだ!ワケを聞かせろ!でないと寝れねぇんだ!