ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈162.酔っぱらい幸福論〉

幸せとは何か。

私たちの中では、

①孤独でないこと

②三大欲求が満たされていること

③未来に希望があると考えていること

という答えに行きついた。

 

 

あれは忘れもしない。中学2年生の家庭科の授業。恰幅の良いおばちゃん先生が教室に入り、始業の挨拶を済ませる。おばちゃんの第一声。

 

"世の中で一番簡単に幸せになる方法わかるかい?それはね、おいしいものをたらふく食べることなんだよ!"

 

なぜそんなことを大声で言ったのか未だにわからないが、その哲学は今もなお私の髄に流れている。辛くなったらとりあえず食う。それが一番なのだ。

 

 

冷静に考えればそれは三大欲求の一つを満たすということだ。満腹なのに怒る奴はまずいない。

 

しかし、刹那的な幸せなのだ。間違いなくそれは幸せだが、坂を転がるように幸福度なるものは下がっていく。なぜなら。人の欲はとどまることを知らず、とどまれば飽きがやってくるのだ。常に満腹ならばおいしいものが欲しくなる。そういうものだ。他の欲求も同様だ。

 

では常に幸せであるためにはどうしたらいいのか。

仏教的に考えれば幸せを目指すのではなく、不幸を避けるということだ。心頭滅却すれば火もまた涼し。殴られて痛くても、痛い=不幸と考えなければいいのだ。痛いなあ、という事実だけを認知する。そうすれば不幸ではなくなる。

だからといってそれでいいのか。いわゆる消極的幸福な状態である。それでいいのか。

違う。やはり積極的幸福を目指したくなる。では積極的幸福とはなんだろう。

 

純粋な楽しさがあることなのだろう。絵を描くとかダンゴムシを弄り倒すとか。無邪気な楽しさだ。しかし、社会的動物である人間が楽しさを得るためには孤独でないことを認識しなければならない。

いや、一人遊びも楽しいけど?

その通り。楽しいのだ。ただそれは同時に刹那的だ。一人で永遠に、誰とも喋らず何十年も生活できるだろうか。他者がまわりでウヨウヨ歩いているのに。アクセス可能な環境なのに。

つまり、積極的幸福のためには、孤独ではない環境が必要なのだ。その環境の中で一人の時間を楽しめば良いのだろう。社会との関係性を保つ、孤独でないことが積極的幸福の必要条件なのだ。

 

ただ、今ひたすら楽しいだけで、誰かと一緒に楽しいことをすれば、積極的幸福なのか。楽しければたばこも博打も犯罪もなんでもオッケーだろうか。

それもまた刹那的なのだ。生きている限り、不安がまとわりついて離れない。楽しくても、いつまでもダンゴムシをいじってるわけにはいかない。生きるということは、死ぬということと表裏一体だ。ではその不安を薄めるために必要なのはなにか。

 

希望なのだ。良い未来が約束されている、と知れば人間、明るく前を向いて歩けるのだ。毎日同じことの連続、ルーティンワークが精神的にきついのは、"未来"という"しんどい今"から目を背けることができるモノを失っているからだ。

 

 

じゃあ、良い未来が約束されている。そんな状態あるのか。

ほぼない。人間が生きる上で100%という数字は滅多にお目にかかれない。

 

それでもありもしない希望を信じて生きる、虚しい生物が人間なのだ。

 

それでいいのだ。その無知さ、虚無のエネルギーが楽しい"イマココ"をつくってくれるのだ。その"イマココ"を積み重ねたら、いつの間にかホントの楽しい未来が"イマココ"になっている。そういうことなんだろう。

 

無を信じる。こんな騙されたようなことあってたまるか。

仕方ないのだ。人間社会はありもしないもので出来上がっている。法も会社も人権も金も、人間が創り出した虚無だ。それでもそれを信じて人間社会はうまいこと流れている。

そういうことで、虚無を信じて悪い、ということでもないんじゃないスカ?

 

ということを飲み屋で3時間、22歳ふたりがたどり着いた幸福論だった。

腹を満たし、友人と、未来の話をして。幸せな3時間だった。

 

家に着くと腹は減る。孤独。怖い。一気に不幸の坂を転がり落ちる。明日はもっと楽しい日なんだろう。"今"から逃避することもまた生きることなのよん。