ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈211.無責任に勇気を〉

教える、という行為ほど無責任で勇気のいる行為はないんじゃないかと思う。

 

知る、という行為には際限がない。一つのことを完全に知ることは不可能である。視点や切り口やらで全然別物に見えるからだ。教える、という行為はその中の一つの視点しか提供できないし、すべきじゃない。しかもその一つですら完全には知らせることができないし、教える人自身完全ではない。だから無責任だと思う。

 

だけども、人が新しいことを知るためには世の中の誰かが"無責任にも"その際限がまるでないかのように綺麗な形に整えて教えなければならない。知れば知るほどその形を綺麗に整える能力は磨かれるけれども、同時に削ぎ落とすところを多くしなければならない。なんと勇気のいることだろうか。

 

私が惚れる人、というのはこの無責任さと尋常じゃない勇気を持っている人である。教える、知る、という行為の限界を認知し、その上で勇気を持って教えている。そして無責任にもその教わっている人に託している。言葉はそれほど多くない。

 

今日、かつて所属していた英語研究会の審判員を依頼され、身分不相応にも審判を下し、そのコメントを述べてきた。私はやっぱり言葉数が増えてしまう。私自身無限の知識はないことを伝えてしまうし、勇気なく削ぎ落とせない。あまりにも醜く、頼りない。それに比べ先輩審判員の、なんと凛々しく美しいことか。潔白で誠実であった。

 

その中の、思いを込めていらっしゃった言葉があった。私が解釈した結果だけどもね。

"チェスの天才、音楽の天才はいるけども、哲学の天才はいない。学術には、その背景の歴史を理解した上で乗り越えなくてはならない。そのためには何年何十年も学び続けなければ到底超えられる山ではないから。"

ご本人は誰かからの引用とは言っていたけども彼がいうとかっちりとはまるものがある。

 

私も当然ながら登山途中であり、彼もまた登山途中である。そして世界には何百何千何億もの同胞がいる。先を登る人はいるものの、その誰一人として登頂はできていない。だから誰も頂からの風景を語ることもできない。しようとするから無責任になってしまう。でも登山の素晴らしさを伝えるためにも、無責任にも勇気を持って伝えなくてはいけないのかもしれない。それが先駆者の務めなのかもしれない。

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ホウチガも沢山の先駆者がいらっしゃる中のひとつのか弱い登山家に過ぎないんだね。謙虚に無責任に勇気を持って潔白に頑張ろうね。また喋り過ぎたよこのボンクラは。