文字の美しさと映像の美しさ
どちらに自分なりの美しさを感じるか
本を読んでいると筆者の描きたかった情景は読み手のこれまで見た光景に依存しているように思う
例えば、有名な川端康成の「雪国」の冒頭
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』
あなたならどの目線でトンネルを抜けた自分を見ているか?
僕の場合、汽車の先頭にいる自分が突如目の前に飛び込んで来た白く覆われた足元の線路と細かくシャーベットのような雪が汽車の窓に飛散した様を想像してしまう
そうした風景をこれまで自分の人生で見たことがあるからだ
またある人は俯瞰でトンネルを抜けた汽車を見ている人もいるだろうし、汽車を想像しているのではなく芋虫電車なのかしれない
情景描写を読者に一部委ねて、イメージを組み立てさせてくれるところが本の好きな理由の1つである
一方で、映像の場合は視聴者に画一的な情景イメージをダイレクトに付与する
たとえば、涙を流しながら笑っている黒人の少年が10秒もの間写されていたとしたら映像そのものが目に焼き付けられ脳に伝達される。そうして、見る側に受け取られるわけだ。
しかし、視聴者は同時にこの映像の意味を理解しようと努める。なぜ彼は涙を流しているのか?黒人の少年を起用した意味は?なぜ10秒もの長い間見せ続けたのか?
見ながら考察する、そのためにヒントを探す、そしてなんとなく意味を理解する。
この過程によって画一的に与えられたイメージとその意味が視聴者の各々の解釈に分岐する点
この点こそが映像作品の面白さであり、映像を見る者にとっては自明のことでもある
映像はイメージをダイレクトに与え、意味解釈の一部を読者に委ねる
そうして作り手が伝えたかった沢山のことを紐解いて考えさせてくれるところが映像に心惹かれる理由の1つだ
文字と映像
それぞれに良さがあり、風流がある
2つに共通しているのは受け手にある程度委ねることだ
そうして作品を受けとることで、作品に自分の一部が入り込んだような錯覚に陥り、愛着が湧くのだと密かに思っている
どちらの表現方法も美しく、心を豊かにするのには変わりないのだが