今日もまたちょっといいことがあった。
これがいいことになるための伏線が大学一年生の時にしかれた。そこから思い出してみよう。
大学一年の末、研究計画書を書くことになった。いま考えればその後いくらでも融通の利く計画書だったが、当時はこれを書いたらそれが死ぬまでまとわりつくと考えていた。だからホントはしてみたい研究と役に立ちそうな研究(?)のどちらかを迷っていた。そこでツイッターでそのことをボヤいたところ、当時のサークルの先輩がリプライをくれた。
「どうせ研究するならやりやすい研究にしたらええで。誰かのためになりそうとか。」
こんな感じの内容だった。
その結果、僕は妖怪研究、民俗学研究から離れることになった。そういう、ホントにしたい研究を捨てて、いかにも研究らしい、人のためになるような平和研究みたいな方向に舵を切ることになった。
だけどね、ためになる研究とか、金になるとか、そういう研究はすごく浅くて、たいしてためにならないし、金にもならないし、レベルの低い研究なんだろうな。なんとなくそんな気がする。ためになることありきの研究はその程度なのよ。それもっと先に目標とか目的とかがある研究が人のためになるんだね。時間がかかるけども。だから大して当時の研究も好きになれなかったし、おもしろくなかった。(平和研究が僕の性に合わなかっただけで、素晴らしい研究分野です。)
つまり、大学一年の末に封印した研究があった。
そして今日、その封印を解いてもいいんじゃない?ということになった。相変わらず研究テーマが見つからないという珍しい大学院生に、先生はあれはどうだ、これはどうだと選択肢を色々与えてくれた。
「まあ、あんまり研究方法としてはおすすめできないし、専門の先生も少ないけど…」
そう言って見せてきた本が民俗学的な分析を取り入れた生活文化の研究であった。
忘れてた!この情熱ッ!でも、やっていいの…?
そんな気持ちになったのだが、先生が背中を押してくれた。決定ではないけど、新たな選択肢として権利を得た。
思えば、私に民俗学は役に立たないと言った人物が二人いる。一人はインターン先の上司、一人はさっきのサークルの先輩。
でも、どっちも私とそんな交わりはなく終わったし、というかそもそも「役に立たない」というモノがあると考えている時点で距離を置くべき人物であった気がする。
そういう考え方が出来るひとがいるべきではあるけど、僕とはマッチングしなかった、というだけなのよ。
その封印を解いてくれた先生、ホントにありがとうございます。いわゆるお母さん、みたいなひとだった。よかったよかった。
なにげない一言が何年後も人を苦しめているかもしれないなんて、なんて罪深いのか。私もきっと苦しめてしまっているのだろう。
多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。