さて、昨日の夜中にホウチガを更新しようと1500字の記事を書いていたが誤って全て消してしまい、やる気も全てなくなってふて寝してしまった
なので、昨日書くはずだった話をしようと思う
もんじゃが昨日、<コミュ障論>と題した信頼関係の構築に関するお話について触れていたので僕も持論を述べさせていただきたいと思う。というのは、単純に興味のあるトピックだから後追いするだけなのだ。
まず、彼は昨日こんなことを述べている。勝手に引用してごめんな
現実の私をご存知の方はいうまでもないが、私は典型的なコミュ障である。
全く喋れないのではなく、喋れるコミュ障。当たり障りのないことをフンフンと相槌を打ったり、興味ある風に話題提供を惜しまずすることはできる。そして、大抵の場合"静かで真面目な子""おっとりなマイペース"という評価を受ける。
しかし不思議なことに時間が経つと"うるさいお喋り""きもい"という評価に変わるのは納得がいかない点ではある。
つまり、彼は初対面の相手に対しては当たり障りのない態度で接し、時間の経過と共に口数が増えるらしい。
僕の主張は、彼の相手との距離の取り方は決してコミュ障と卑下するものではなく信頼関係を築く上で適切な対処法だということだ
それは、彼が後述した”信頼関係というのが難しく、崩れやすい”ということに起因している。そう、信頼関係の構築は、まるでカタチが不揃いの積み木を高く積むように難しいことなのだ。
話は、遠い遠い昔、狩猟採集社会や農耕社会、先祖は常にあらゆるリスクにさらされていた。明日も妻と娘たちを養える量の動物や魚を獲れるとは限らない、手塩にかけたコメは病気で全滅するかもしれない、洪水によって家も財産も流されてしまうかもしれない。
これらのリスクは未然に防ぐことは可能だが、起きてしまうときには起きてしまう。では、避けるべき悲劇が起きてしまった場合に彼らはどうするのか?
それは、隣の村の信頼できる知人に助けを求めるのだ。そうして、もし恩恵を受けた知人が不漁だった場合には借りを返す。快くその日に獲れた魚や貝を目一杯与える。
相互扶助の関係によって死というリスクを最小化する。
これを、われわれ人間は長い間続けてきたのだ。
しかし、相互扶助の関係には一つだけ大きな落とし穴が存在する。
それは、これらの互恵的関係に裏切られるという恐れが息を潜めているということだ。
もし、友好的な関係を続けていた隣の村が突然手を差し伸べなくなった場合、つまり裏切りが起きた場合には、まもなく死のリスクが音を立てて迫ってくるのだ。
これらの裏切られるという経験を幾度となく経験した上で、裏切るという危険因子を取り除くために、信頼関係の構築には慎重に、慎重になったのである。
どの人物が裏切るのか、裏切りそうなのか、信頼できなさそうなのかを目を光らせて無意識に観察していた。そこまでの準備をしなければ信頼関係というものがいかに崩れやすいものなのかということを分かっていたのかもしれない。
話は今に戻る。
僕たちは誰かに裏切られたからといって死ぬわけではない。
食料はスーパーに行けばあるし、災害保険にも加入している。
だが、信頼関係が崩れることで、むやみな争いや、心理的なショックを受けるという負のリスクには相変わらず晒されている。
だから、いまでもそれらのリスクに正しく対処し、裏切られることを防ぐために慎重に相手との接し方を変えるわけだ
初対面は最も相手のことを警戒している段階だ。これから長く付き合うであろう相手に対しては自分のカードを極力見せずに、当たり障りのない態度で相手の情報を探ろうとするのは非常に適切なリスクヘッジだ。
はじめから、大っぴらに心の窓を開けて関係を構築しようとするのは盗みに入ってくれと言っているようなものだ。他人を100%信頼してはいけない。相手を全て理解しようとせずに、自分を大切にした方がよっぽどよいのだ。
祖先が裏切られて学んできたように、信頼関係の最善な構築方法は経験しながら学んでいくしかない。慎重に心の窓を開けるくらいがちょうどいいのではないかと考えた次第である。