ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈245.続信頼論〉

だいちが歴史的分析によって、裏切りのリスク回避のための用心深さと言う議論をしてくれた。なるほど。これはおもしろいぞ。

 

この理論に批判する点も特にないし、むしろ大いに読まれて良いと思う。その通りだし、納得感がある。じゃあ議論を深める問いを立ててみよう。

 

どんなとき、信頼できるのか。崩れやすかったとしても、信頼するためには何が必要なのか。

前提にあるのはだいちが分析した通り、人間は自分の財産および利益の損失を恐れる、という心理だ。

 

ではこの損失を恐れなくてもよくなった状態が、信頼関係ができた、と言い換えてもいいだろう。現実でもそうだろう。突然親族が家から貯金を持って行くとは考えてもいない、思考範囲内にない、つまり損失はないとしているのだ。

 

では、私のケースから落とし込んでいこう。私が最も信頼を寄せている人間。まずは両親である。私を貶める行為をしたことはないし、仮にあったとしても偶然の重なりによってである。むしろ私の益になるために奔走してくれたし、いまもこうして一人暮らしを成り立たせることができている。

次に親友である。地元のあいつ、大学時代のこいつ、ホウチガのひとたち。この人たちの前なら私は財布を忘れてもいいと思うし、保険証も一時的に預かってもらっていいと思う。

 

とりあえずこんなところでいいだろう。

じゃあ共通点を探っていこう。親および地元の親友は絶対的に時間を共有している。つまり、時間という概念が大切かもしれない。

大学時代のあいつおよびホウチガ。これは腹を割った話をした上で、私を認めてくれた。小出しにした腹の中をすべて認識し、その上で否定がなかった。つまり、承認されたという経験が大事である。

そして全員の共通点、連絡を細かく入れている。現在の彼彼女たちを認識できているし、なんとなく把握できる。つまり、承認されるの逆で相手の今を把握できているのことも大事かもしれない。

 

時間、承認、把握。この三要素が信頼関係の構築には不可欠ではないかと思う。

 

もちろん、信頼の深さにも差があるだろう。これはその三要素のバランスじゃなかろうか。どれか一つに特化した状態、例えば寮生活で絶対的に時間は一緒ならば、一定程度信頼は可能になるかもしれないが、相手が自己開示をしてくれない時は、何考えてるやつかわかんない。そしたら信頼はできないぞ。同時に、自分も自己開示をして承認されるための前準備をしなければならない。

 

ここに落とし穴があるとすれば、この要素を揃えてしまえば、騙すことも可能だということだ。実際、詐欺まがいの事件にはよくあることじゃないだろうか。嘘の情報で自己開示、あるいは解釈ミスを起こしやすいように情報を操るなどなど。

 

その騙すという行為が裏にあるのが見え隠れするうちは表向きの信頼である。じゃあ、完全体の信頼をつくるためにはどうしたらいいだろう。

 

僕は、なんとなくであるが、お互いバカになることだと思う。バカにされてもいいや。そう思える関係が固い信頼じゃないだろうか。

目の前で屁をこく、下手くそなモノマネをする、すっぴんの顔を晒す、汚い部屋を見せる、洗濯カゴの山を残す。そんな不潔とか下品とかそういったマイナス要素すら気にならなくなった時、崩れない信頼関係になってるんじゃないかしら。

 

だから私は真面目な良いやつからキモくなるのだと思う。私としては信頼関係を求めているのだろう。寂しがりですから。だからちょっと良いやつだと判断した途端、私はバカになる。そして相手もバカになった時、そいつと信頼関係を結ぶ。という心理になっているんだと思う。

 

小さい時、すぐにバカなことをしたでしょ。だから仲良くなれるんだ。

友達が欲しい?じゃあその建前を取っ払って、バカになればいいんじゃないかしら。それでも近くにいてくれる人が愛すべき人だとあたいみたいなモンは思うわけよ…。

 

だいちが俺の文章に反応して、それでまた俺がだいちの文章に反応して…。こういうことがやりたかった!いやぁ。ありがとうねぇ。なんかホウチガの夢のひとつが叶った気がするのよ。