〈262.日常の埋没のこと〉
部屋の配置をどれくらい認知できているだろう。部屋全体を概観する機会はなかなかないし、私みたいに部屋なモノが多い人、断捨離できない人は、隅々まで思い出すのは困難を極める。あれ、爪切りどこだっけ。輪ゴム入れどうしたっけ。そんなの日常茶飯事だ。
こんなことが起きてしまうのは、部屋の日常性に埋没してしまっているからだ。文字通り、爪切りは埋もれているのだが。
いつでもそこにあると、そのものが持つ価値を評価できなくなってしまう。失って初めてわかる、というのもそうだ。距離を置いた時に、その日常性を客観評価できるようになる。
じゃあ日常のものを定期的に距離を置いて見てみよう、なんてことは簡単にはできない。特別な感情がなければ、その日常物に対して意識しなくなるんだから。通学に使っている自転車を意識するか。僕はなかなかしないぞ。毎日履いてる靴の裏側の状態を把握しているか。なかなかしないなぁ。
無意識を意識化するっていうのは相当難しい。無意識下に落ちているものが、故障したり欠陥が生じたときにようやく意識にあがってくる。でもこれじゃあ遅い。
僕のちっさい脳みそじゃあ解決策は出てこない。例えば、寝る前の横になった大の字になって、1日のうちで"よかったなぁ""うれしかったなあ"って出来事。小さければ小さいほどいいかもしれない。それをひたすらに、なんでうれしかったのか、なんでよかったのか、分析し続けてみてもいいのかもしれない。
今朝、家の鍵をしめるために、玄関から部屋を振り返ってみたとき、誰もいない汚い部屋が広がっていた。
"居心地がよくって、グダグタできるのはこの部屋があるからか。お客さんからしたら相当汚い部屋だな。"
部屋のためにも綺麗にしようと思ったのが、これを書くに至った原因なのよ。
一番身近なのは自分の体であり、考えている脳みそなんだけどね。