やりたいことに理由が要るか。やったあとどうするか。ハラミキの今日の問いである。
非常に根深い問題だよねぇ。わたしもこういう問いにはできるだけ立ち会わないようしている気がする。考え出すと止まらないんだから。
ハラミキとしては、理由を先に考えるより、やってみて理由がわかるかもしれない、直感的に、との意見だ。
なるほど。確かにそうだなぁと読んでいて頷くことになった。
確かに、理由って後付けだ。
こどもを育てることにしたサッカー選手も元はといえば、サッカーが好きだから、好きで仕方ないからし続けたら強くなって、その後にまわりの期待に応えるとか、平和に繋げたいとかっていう、強くなる理由ができるんじゃないかな。
もちろん、先に理由が来る場合もゼロではないかもしれない。強い信念があって、絶対にくじけない理由があれば、むしろやることが後付けになるかもしれない。恐ろしいことだけど、復讐とかそういう気がする。私にはわからないことだらけだ。
じゃあ、なんのために理由ってあるんだろう。やりたいからやる、でなんで世界はまわらないんだろう。
たぶん、"私がやりたい"だけだと、仲間が集まりにくいからかなぁ。あとは、わざわざ社会活動のひとつとしてやる上で、理解不能の行為って恐怖の対象になるから理由は欲しくなる。
会社がわかりやすいひとつだと思う。社長さんが"タピオカ売りたい!"だけだと、なかなかそれを理解して協力する人材とか、資金協力する人とかが集まってこない。
"タピオカに含まれる〇〇という栄養が実は人間にとって欠かせないものなんだ!その〇〇をもっと人々に行き渡らせて、健康な社会にするためにタピオカを売りたい!"
こういえば、すこーし心が動くかもしれないね。
別の例を考えてみよう。
あなたが住むところのとなりに小さな作業場ができたとしよう。そこではなぜかわからないけど、ひたすらに藁をあつめて、それを上手に編んで人形を作っているとしよう。
あなたはちょっと興味が出てきて、作業場の長にインタビューをしてみる。
"この藁の人形はなんでつくってるんですか?"
長はこう答える。
"なぜっていわれてもねぇ。楽しいから。"
この話を友達にしてみよう。
"え、藁人形つくるのが楽しいの…?なにか呪われてるんじゃないの…?"
人間っていうのは、未知のものに対して恐怖を抱くようにできているからね。恐怖することを合理化するために、無理やり理由づけされちゃうこともしばしば。それが偏見とかラベルってものをつくるんだろう。
話を戻して、理由づけっていうのは、「自分の中だけで終わるもの」については必要がないと思う。ハラミキのいうとおり、直感を大事にしてやってみることの方が大事だし、なにより楽しいし。
だけども。それをなにか外に出すとなったら、仲間を作るとか、拡大するとかになったら、理由づけが必要になってくる。
理由があれば、自分自身のモチベーションにもなるね!
短距離走には理由はいらない。ひたすらスピードを求める。結果を求めればいい。
だけど長距離走するときには、なにかモチベートするものが欲しい。それが理由なんだと思う。
とかかっこつけてみたけど、
僕自身、アフリカ研究に理由って要るんかなって悩んでた時に、直感を大事にしていいって言ってくれたのは、心が軽くなった。
ありがとうハラミキ。
ホウチガに理由はなくていいよ。楽しいし、別に事業拡大とかないし。
ね。