ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈296."倫理的に"考〉

今日は院生らしく小難しい議論をしよう。

長いぜ。いつもの2.5倍くらい。

 

 

私は倫理的に、という言葉はあまり好きではない。思考停止の結果の産物のように思えるからだ。

しかし、そうとしか説明できないことがある。それは理解しているし、批判する気もない。

 

人を殺しちゃあいけない。

こんなの当然だ。私もそう思う。殺したいなんて思ったこともないし、思っちゃいけない。暴力に訴えるのは知能の低いことだと教わった。倫理的に許されるものではない。

 

だけども、だからこそ、あえて考えてみよう。なぜ殺しちゃいけないのか。動物であれば領土争いや食料確保のためには仕方のない、ある意味消費物として見られる場面もある。ライオンがシマウマを狩りする場面はテレビでお茶の間に届けられたりさえする。それなのに人間だけは殺しちゃいけないのはなぜ?

 

人権侵害だ。これが一番わかりやすい答えだろう。国連が定めたものとして絶対的で永久不滅の権利として全人類が人間を有している。その生存権を脅かす愚劣な行いであるため殺人は許されないのだ。

 

では、人権の根拠は?なにをもって人権を証明できるのか。シマウマ権やライオン権はなしに、人権だけがあるのはなぜ?国連に集められた少数エリートによって定められた架空の産物がいまや100億近く膨らむ全人類に適応されるのはなぜ?

 

人類学の議論に、"普遍主義vs相対主義"というのがある。

普遍主義は、人類には共通事項が必ずあるという考え方である。

"クラスのみんなは友達なんだから休み時間は一緒にドッジボールしなければならない。"

相対主義は、それぞれの環境や歴史によってこれまでの歩みは異なるのだから完全な理解はありえないという考え方である。

"クラスのみんなは別々の人間なんだから理解しあえない。ドッジボールも全員参加じゃない。そんなこと知らない。"

ざっくり言うと。たぶん。

 

つまり、人権という考え方は普遍主義にあたる。人間という同種族なんだからみんな同じ権利を有しているの。

ここで考えたいのは、普遍主義=平等主義とは言えない点である。ただ、異文化であっても共通事項がある、というだけにとどめておくのが普遍主義と理解しておこう。

 

つまり、人権がまだなかった時代、植民政策も一つの普遍主義であった。

というのは、人類の進歩として西欧文化がある。そう信じて疑わなかった人たちが、文化の発展や進歩、そして自らの優位性のために"劣った文化"とされた人たちを啓蒙する一つとして植民政策が解釈された。

だって、人間には、一つの答えとして一つの文化が存在するっていうのが普遍主義なんだから。

"クラスのなかで力のない田中。そんなの関係ないね。休み時間はみんなでドッジボールするものだ。絵を描きたい?知らん!お前も強くなれ!"

 

だけども、そうじゃない。それぞれに文化があって、お互いは理解しあえない。そう考えるのが相対主義である。被植民国家にも文化があって、それぞれは全くの別物で、比較もできないし、同化もできない。

 

こう考えると、異文化尊重の根拠として相対主義があって、乱暴な議論として普遍主義があるように思える。

 

しかし、相対主義の最終形態は個人主義なんだと思う。同じ家庭で育った子供も成長するうちに経験することは異なる。異文化を有することになる。だから人と人は理解しあえない。

一種の冷笑主義的な諦めになってしまう。

"田中は絵を描きたいらしい。ふぅん。そんなのどうでもいい。僕は勝手にドッジボールするよ。久保田はサッカーがしたい?いいんじゃない?どうぞ。"

 

 

話を戻す。なんで人を殺しちゃいけないのか。

 

人権で保護されているから。これだと異文化間の差異でさえ無視する、先進国側の押し付けになりかねない。異文化の差異を認める優しさを認めてしまえば、少数エリートが決めつけたものを全人類に押し付ける、植民政策の最終形態とでも言えることになる。人権を理由にしちゃえば世界統一ができる。一文化化ができる。だって異文化の摩擦で争いが起きるんだから。SFみたいだけど、人類アンドロイド化計画とでも言えるかもしれないね。

 

そんな楽しくない、差のない世界は嫌だ。違いがあるから楽しいんだ!

そういって異文化の差異を認めれば、行き着く先は、人はみんな一人きり、だから誰がなにをしても責任は問うことができないという、悲しい命題だ。

 

 

ここで、このあいだっこをねらってみよう。

異文化の差異を認めつつ、だけども人間の普遍性も期待する。人権を認めつつも異文化も認める。

ん?これっていまの我々の生活じゃない?

 

"休み時間は絵を描く田中。なに考えてんのかわかんない。

でも、田中が楽しんでいるならいいだろう。

でも、田中、ドッジボールしてみたくはない?今日はしたくないか。それならまた次にでも。"

 

もちろんこの感覚っていうのは地球全員共通でない。同じチームが嫌すぎて先生に異議申し立てする奴もいるし、場合によっちゃあイジメにすら発展する。

 

だけどそういう"わがまま"はいけないことだということはわかる。この感覚は人間が激しい弱肉強食世界で生き抜いた、弱者としての人間が勝ち得た"社会感覚"だと思う。

 

殺しがいけないっていうのもそういうことだ。殺しを許してしまえば、私情によって社会秩序が崩壊する。それを回避するための社会感覚を文字化してみたら、人権っていう権利を誕生させるに至った。

 

人権が認められたことは、グローバル化の影響も間違いなくある。汎地球思想なんだろう。その解釈文脈や実践としては地域に委ねざるを得ないよね。そうしないと、普遍主義傾倒しちゃうもの。

 

結局人間としての社会観として殺しはいけない。そしてその根拠にあるのは、普遍主義と相対主義の微妙なバランス感覚なんだろう。

 

それが"倫理的に"という言葉に凝縮されたものなんだろうね。

 

倫理的に殺しはいけない。そして倫理的に復讐も許されない。

すべては公平な人間社会の秩序のために。

 

 

私の議論は間違いなく穴ぼこだらけだ。批判の余地がたくさんある。そして曖昧になっているものが多い。ぜひそこについて話をしたい。 

考えることが真の"倫理的に"にたどり着ける気がするから。