先日、友人とかなり入り込んだ話をした。
私は人間の愚かな部分も一種美しさを感じると思う。例えば、めんどくさいという感情に流されてしまう弱さ。
なんと説明したらいいのかはわからないが、人間らしい、不完全な存在として一種安心感を覚える。
そう。安心感なのだ。つまり、私もめんどくさがりである、ということを人間一般のものだとする事で自らの弱さを良しとしようとする、これこそ浅ましい感覚である。
一方友人はというと、そういう不完全は良くないとする。完全なる存在を目指し、不断の努力を重ねなければならない。そうすることで、人間の弱さを克服することができ、平和な世界へと導くことができる。そういうのだ。
この考え、一切否定するつもりはない。むしろ否定できない。なぜなら私はそこまでの向上思考を有していないからだ。私がこれを批判してしまえば、そいつの足を引っ張ることになる。それなら私の考えはなかったこととして是非とも聖人への道を突き進んでいただきたい。心からそう思う。
ここからは独り言だ。というかこのブログ自体が独り言みたいなもんだから私の世界を敷かせていただこう。
"光あるかぎり、また闇もある。"
これは昨日よろしく、ドラクエの話だ。もとはといえばドラゴンクエストⅢのラスボス、大魔王ゾーマの捨て台詞である。大魔王を滅ぼして光の満ちる世界を作り出したとしても、その光によってまた影ができ、対極な世界が必ず存在する、それが理だとする一種ドラクエ哲学とでもいえるはなしだ。Ⅲに限らず、どのドラクエシリーズをとってもこの哲学が貫いている。
ドラクエで育った私も同じ考えだ。
人間が不断の努力を突き進め、超人とでもいえる存在になることができたとしよう。しかし、それは天国なのだろうか。というか、超人とはなんなのか。人間すべてが長所の塊になることだろうか。
しかし、これまた光と影の紙一重の考えがある。ポジティブなことも視点を変えればネガティブなのである。几帳面というポジティブな面も、ネガティブにみれば気にしぃだと変換できる。しかも、人間には各個人が有してしまっている個性がある。良かれと思ったことも個性というフィルターを通せばお節介になる。
そういう意味で私は超人にはなれないと思う。各個人が個性を有しているかぎり、共通の超人像は描けない。没個性をすれば超人の世界を作り出せるけど、それこそヒトラーの世界かアンドロイドの世界だろう。
むしろ、弱さ浅ましさを寛大な心で引き受けることでしか進展はないと思う。
事件一つ取ってもそうだ。もちろん、他人の権利を侵すのは許されない。基本的人権という考えが浸透している現代社会では法的にも、そして倫理的にも(〈296."倫理的に"考〉参照)許されることではない。
しかし、その犯人が権利を侵すにいたった経緯を、全く同じように誰かが歩んであれば、例え聖人であっても犯罪を犯してしまうのではないかと思う。一罪人の気持ちはその罪人にしか理解できないのだ。いや、罪人でさえもわからないのが心というやつだ。
だからこそ、"罪を憎んで人を憎まず"である。
僕の場合、"罪を憎んで人を憎「め」ず"だろうか。弱いのが人間なのだ。きっとその罪人にも光はあったのだろう。
不断の努力は必要だけども、同時に寛容な精神、優しさ、共感性、ここらへんも忘れちゃあいけないんだと思う。
そうしないと、光と闇のバランスが崩れちゃいそうでね。
ハラミキが元気になったようでよかったわ。でも所詮うんちみたいな糞人間が言うことだから間に受けないほうがいいわよ。あくまで一意見としてね。あたしは責任負いたくないわよ。
エビチリより僕はエビマヨ派です。