〈311.面白い話と自分語り〉
読んでいて面白い文章ってなんだろう。
300もこういう文を上げ続けていれば当然毎日ぶつかる壁でござる。
もちろん、私みたいな初心者が面白い文章を書けることはレアであり、はぐれメタルに遭遇するくらいの話です。
だからこそ、かけた時の達成感と成長感はひとしおでありまする。経験値いっぱいゲットなの。
この、恥ずかしいながらも自分の中で良い文を書けた時の共通点を考えていた。
まず、間違いなく反応がある時でしょう。
いいねみたいなものをもらったり、友人からはコメントをもらった時は、きっとその人のなにか触れることができたのだろうと。もちろんお世辞でくれることもあるだろうけども、それでもなにかコメントをしようと思っていただけるものを書けたのだろうとおもうわけです。
そういう反応がもらえるのは、自分語りに偏るときよりも、私の癖の社会分析を上手いこと1000文字程度にまとめることができたときのほうが多い。
自分語りというのは、結局自分にベクトルが向いていて、読み手を伺っていないと感じる。私自身読むときはそうだ。よっぽどその人に憧れがない限り、脳みそに情報が入ってこない。
だから、誰もが属する社会について考えてみると、議論が共有されて話がしやすくなる。
じゃあ自分語りはダメだ。そう言い切れるものかというとそうじゃないんじゃないかなぁと思うのです。
自分語りの中で、社会に対する自分の立場を話すものは面白い。自分史を語っても理解できないことが多いけども、社会がこうで私がやりたいことはどうだからこうやって生きていく、というのはワクワクするじゃない!
というのも、共通の社会に対峙する生き物として個人がイキイキと現れてくる。
今読んでいる、岡本太郎の本もそれに当てはまると思うの。結局すべて、私はどう思うか、というそれに終始しており、サブイ自分語りという流し方をしてしまえば終わる話だ。
だけどもそういう流し方をすることはなく、私の心に深く突き刺さるのは、その自分語りが新しい社会の見方を教えてくれる。
結局のところ私が思うところは、人間は結局自分に興味がある、だからこそ自分に当てはまる話は面白く感じるんじゃないか。
人間共通の事実としてあるのが、社会的動物というところなんじゃろう。
自分の世界にどこまでも堕ちる時間は必要だと思う。それを手助けしてくれる人間がいればそれはとっても大事にすべきなんだね。だから同時に相手の堕ちる時間を助けてあげないと。社会的動物の相互扶助関係としてねぇ。
憧れている文字書きの人がかつてこんなことを言っていまして。
"自分の文章にじぶんがいるうちはまだまだ精進が足りなくて。じぶんがいない文章を書けるようになったとき、じぶんがいる自分の文章が面白くなる"
そうです。おらぁまだまだなんだなぁ。
最近さぼってたので、明日もちゃんと向き合ってみましょう。