ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈314.怒るときの精神構造〉

先日京都の街を歩いていましたところ、怒鳴り声が聞こえてきまして。

チャリとバイクがぶつかったらしい。いいおっさん二人が真昼間から罵声をお出しになられていらっしゃいましてな。

 

 

自分の言い分が正しいと思うことは別に悪くない。それを疑っちゃったら自分を肯定できなくなるからね。

だからといって、大声をだして、つまり威嚇することによって自分の意見を通そうなんていうのは小学生までだぞ。俺はそう思うの。

 

小学生までなら許されていいんじゃないかしら。だって自分の意見を論理的に並べる語彙もなければ頭の回転も足りないんだから。仕方ないよ。"子供"だもの。

だけども、中学生くらいから、たとえ不十分であっても怒らないことに挑戦し出すころだろう。なんでか?"大人"になりたいからだね。

カッコいい大人は大声なんて出さない。じっと相手の意見を聞いて、それに対峙するだけの必要性があれば、論理的に対峙する。これが大人ってやつだ。

渡哲也が大声出すわけないじゃん。

 

大声を出すのは、論理的に説明できず、暴力的な方法で議論のイニシアチブを握ろうとする、低レベルな行為だ。

 

もちろん、場面によっては大声を出すのもひとつだろう。例えばスポーツ。大声を出すことで自分を盛り上げたり、場合によっては相手を怖気付かせて優位に立つ。

だけどもこれって、"スポーツ"っていう日常とは一線を画した特別な場面だから許されるもの。スポーツマンは土俵を降りれば大声なんて出さないよ。

 

大声を出す、つまり、怒りの感情っていうのは非常に動物的だ。人間的ではない。犬猫だ。賢い犬猫なら怒ることもしないだろう。怒るという行為は、いわば自己保身のために行う自己中心的で浅はかな態度だ。相手を不快にするし、なにも生み出さないよ。生み出るものといえば、後味の悪さくらいじゃない?

 

"あなたのためを思って怒っている"?

ああ。そんな言葉もあるらしいじゃない。もちろん、相手のためを思って怒る人もいるだろう。「怒るという行為を通して相手に脅威を与え怠惰な様子を吹き飛ばし行動を起こさせる」、つまり道具として怒りの感情を使っているんだね。

しかし、こんな器用な、というか、仙人のようなことをできる人をぼかぁみたことがないな。

その要素を取り入れてはいるものの、結局怒っている私にスポットライトがいっているのがオチだ。

 

そもそも怒るという行為が有効な手立てになるためには、二者間の厚い信頼関係が必要だね。いわば親子とか。師弟関係とか。

それだったとしても怒るというのは最終手段、核爆弾みたいなもんだ。出さない方が良いに決まってる。僕も親父に怒られて良かったなあということもあったけども、未だに納得いってないこともあるネ。

 

 

この考えに至ったのは、アドラー心理学のベストセラー本、岸見一郎さんと古賀史健さんの「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」(ダイヤモンド社)を読んでから。

 

結局人間は、動物だから自己保身に走ってしまうもの。その中で、動物としてでなく、人間として楽に生きるためには、すべてのものごとを相手との関係を切り離して考えることなんだって。完全に切り離して考えれば、怒らずに済む。らしいよ。

そこらへんの理論がどういうのかは忘れちゃったから読み直すとして、私の中でもトップの人格形成本なのは間違いねぇです。

 

怒れるうちはまだまだ若造ってことだ。