私が好きな、ゲームというか、漫画というか、本というか。そういうあいまいなジャンルの奴がある。
その曖昧性によって、いろんな層の多くのファンを抱えているので、たくさんの供給物がある。飽きが来ることはなくてよろしいのだけれども、私が好きな部分はどうやらマジョリティではないようだ。
説明が難しいので例を示すと、オーケストラが好きだということにしよう。
その中で、いろいろな楽器があって見どころ聞きどころがたくさんある。その中で、私が特に好きなのは、木琴である。出番があるかないか、はたまたいまの曲で出てきたの?そんな隠し味みたいなやつだけど大好き。
そんな感じである。
オーケストラのCDはあるけども、木琴単独のCDが、まあ一応ないわけではないだろうが、圧倒的に供給不足なのよ。社会的需要も皆無。したがって、そのジャンルが発展することはない。悲しいなあ。
ところが、マイノリティであるがゆえに、ファンの結束は強く、あわよくば私が供給側に回りかねないのだ。そんぐらい、ハードルが低いのだ。
なにごともそうだろうね。万人受けしない、冷たい目で見られるうちに、供給側に回ることができて、めちゃめちゃ頑張って普及できれば大先生になれる。
私はテニス一筋であったが、高校の時のテニス友達の一人が、なんだったかな、名前を忘れてしまったけど、テニスコートを四分の一位にしたテニスみたいな競技。それを始めた。日本のプレイヤー数は100人くらいで、たちどころにプロフェッショナルらしい。
マジョリティにいれば、安定するし、無駄なストレスを感じないからいいけども、そこでトップを狙うのは難しい。マイノリティとかニッチって言われるところに身を置いてみるのもきっと新しい発見ができるんだろうな。
ベンチャー系の会社に就職しようとしていた奴がそんなことを言っていたな。なかなか勇気のいることだと思うんだけども、楽しいだろうな。
シャポバロフ現象で話したけども、先導者がいることは自分の成長が手っ取り早くできる。だけども同時に先導者も自分が走るのと同じく走っているのだ。追いつくのは並大抵じゃないのよ。
果たしてこのレースに参加することが正義なのか、それとも蛮勇なのか。
このレースから抜け出て、自分が開拓者としてレースを始めるのが正義なのか、蛮勇なのか。
正解とかはないんだろうけど、死ぬときに成果として残るんだねえ。