友人が議論をふっかけてきた。いいじゃない。のってみよう。理想についての議論だ。
まずはこの文章である。
要約
このIambe(読み方わからん)君は、大きな遠い理想は変わりやすい、それなのに世間からは立てることを急かされ、ギャップに苦しむことになり、自己肯定感を削られる。
この大きな理想の存在する意義はあるのか?それより身近な課題解決をすればよかろう!
そんな感じ。
私自身、理想については賛成も否定もなく、そりゃ存在するわあというふわふわしたところでよくわからない。書きながら形作ってみようかしら。
まず、「精神安定剤としての夢、理想」というもので考えてみよう。
夢や理想を置くことなく、Iambeが言うように、身近な課題の解決策を出していけば、いつか到着する未来があるだろう。きっと多くの自分の課題を克服し、偉大な存在となっているはずだ。
しかし、人間は果たしてプログラミングされた命令を解決できるような、冷血の存在になれるのだろうか。
僕は残念ながらそれができるのは超少数だと思う。僕みたいな一般人は、成長するためには餌で釣らないとだめなんだ。精神安定剤よ。私が頑張る理由が明確なら動けるもの。
課題解決してなにになる?そんな問いが出てきてしまう。だからこそ、身近な課題解決の先の美しい理想を置くことが必要だ。この課題を解決していけば、きっと僕はこうなれる。或いは社会はこう変化するだろう。そうすれば今の謎の行為の意味づけができるからね。
しかし。しかしだ。
人間は勝手な生き物で、手に届きそうだと思えるものでは美しく感じないのだ。遠ければ遠いほど美しく思える。欲の塊なのだ。すなわち、諦めない限り理想とのギャップは永遠に埋まることがない。修羅道を歩むことになる。それもまたひとつの道だとは思うんだけど。Iambeが言うように、理想を持つということは苦しいのだ。
理想があれば行為の意味づけができる。しかし苦しむ。
自分を諦めて、理想を抱かなければ苦しまなくて済む。現状に満足することが苦しみから解き放たれる方法なのだ。たしかに仏教がそんな感じだったと思う。幸せになるのではなく、苦しみから逃れるのが仏教だったと。
しかし、それを幸せと形容するかは人によるんでしょうな。
幸せになるためには対価が必要なのだ。
理想を置くことで感じられる魅力の代わりに、自己肯定感の低下というコストを払うことになる。
理想を置かなければ、コストもかからない。いまと変わらない平安が訪れる。
変化を幸と思うか、不幸と思うか。
平安を幸と思うか、不幸と思うか。
まとめ。
身近な目的を永遠に置き続け、解決していく作業は人間にはあまり向いてない気がする。その作業の意義を問うことをしてしまう。
それを回避するためにも理想が必要になる。凡人は当然理想がなければ今が苦しくなる。
だけども美しい理想をおけば当然対価を払わなければならない。ギャップに苦しむ。
→理想のあるなしに問わず、自分が成長するとか社会を変えるとか、そういう強い意思がない限り修羅の道なんじゃないかしら。
。。。。。。
適当に自分に諦めつつも、とはいえ自分の存在は肯定してみる。
理想をぼんやり抱いてみるけども、とりあえず目の前のことをえっさほいさえんやこら。
それが僕にとっちゃあ「いいあんべぇ」なんじゃないですかね。
適当でいいじゃない。
ガンガン変わる理想だっていいじゃない。そんだけ自分が過去とは違う自分になってるってことでさ。軸があればなんでもよかろうなのだ。