ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈317.理想論争〉

友人が議論をふっかけてきた。いいじゃない。のってみよう。理想についての議論だ。

 

まずはこの文章である。

iambe.hatenablog.com

要約

このIambe(読み方わからん)君は、大きな遠い理想は変わりやすい、それなのに世間からは立てることを急かされ、ギャップに苦しむことになり、自己肯定感を削られる。

この大きな理想の存在する意義はあるのか?それより身近な課題解決をすればよかろう!

そんな感じ。

 

 私自身、理想については賛成も否定もなく、そりゃ存在するわあというふわふわしたところでよくわからない。書きながら形作ってみようかしら。

 

まず、「精神安定剤としての夢、理想」というもので考えてみよう。

夢や理想を置くことなく、Iambeが言うように、身近な課題の解決策を出していけば、いつか到着する未来があるだろう。きっと多くの自分の課題を克服し、偉大な存在となっているはずだ。

しかし、人間は果たしてプログラミングされた命令を解決できるような、冷血の存在になれるのだろうか。

僕は残念ながらそれができるのは超少数だと思う。僕みたいな一般人は、成長するためには餌で釣らないとだめなんだ。精神安定剤よ。私が頑張る理由が明確なら動けるもの。

 

課題解決してなにになる?そんな問いが出てきてしまう。だからこそ、身近な課題解決の先の美しい理想を置くことが必要だ。この課題を解決していけば、きっと僕はこうなれる。或いは社会はこう変化するだろう。そうすれば今の謎の行為の意味づけができるからね。

 

 

 

しかし。しかしだ。

人間は勝手な生き物で、手に届きそうだと思えるものでは美しく感じないのだ。遠ければ遠いほど美しく思える。欲の塊なのだ。すなわち、諦めない限り理想とのギャップは永遠に埋まることがない。修羅道を歩むことになる。それもまたひとつの道だとは思うんだけど。Iambeが言うように、理想を持つということは苦しいのだ。

 

理想があれば行為の意味づけができる。しかし苦しむ。

自分を諦めて、理想を抱かなければ苦しまなくて済む。現状に満足することが苦しみから解き放たれる方法なのだ。たしかに仏教がそんな感じだったと思う。幸せになるのではなく、苦しみから逃れるのが仏教だったと。

しかし、それを幸せと形容するかは人によるんでしょうな。

 

幸せになるためには対価が必要なのだ。

理想を置くことで感じられる魅力の代わりに、自己肯定感の低下というコストを払うことになる。

理想を置かなければ、コストもかからない。いまと変わらない平安が訪れる。

 

変化を幸と思うか、不幸と思うか。

平安を幸と思うか、不幸と思うか。

 

まとめ。

身近な目的を永遠に置き続け、解決していく作業は人間にはあまり向いてない気がする。その作業の意義を問うことをしてしまう。

それを回避するためにも理想が必要になる。凡人は当然理想がなければ今が苦しくなる。

だけども美しい理想をおけば当然対価を払わなければならない。ギャップに苦しむ。

→理想のあるなしに問わず、自分が成長するとか社会を変えるとか、そういう強い意思がない限り修羅の道なんじゃないかしら。

 

。。。。。。

 

適当に自分に諦めつつも、とはいえ自分の存在は肯定してみる。

理想をぼんやり抱いてみるけども、とりあえず目の前のことをえっさほいさえんやこら。

それが僕にとっちゃあ「いいあんべぇ」なんじゃないですかね。

適当でいいじゃない。

ガンガン変わる理想だっていいじゃない。そんだけ自分が過去とは違う自分になってるってことでさ。軸があればなんでもよかろうなのだ。