そんなたいしたことじゃないのに、ことあるごとに思い出す結論のない話。
やたらと進学校に進んでしまったので、高校の昼休みは大変だった。歴代天皇を黒板に書き始めるかと思えば、太陽までの距離の計算方法を探していたり。よくわからないことをやっている人たちを真似て、僕も新聞を広げて読んでみていた毎日だった。
ある日、いつもの通り弁当を食べながら端っこの四コマ漫画を読んでいると、後ろの席のやつが覗き見をしてきた。
"ああ、〇〇法についての議論な。最近盛んだもんな。俺はもちろん反対だけど。"
おん?〇〇法とな?俺はよく知らんぞ。なんお前、議論ふっかけようってのかい?
"だってさ、この法案通ったら△△になって□□なことになるぜ?そう思わないか?"
やべ。矛先がこっちきた。
"いや、だとしても僕は賛成だけどな。"
例の黒板遊びが得意な秀才君が現れた。ふぅ〜あぶね。危機一髪。無知が露呈するね。
なにやら僕の机を囲んで議論が始まってしまった。一人二人とあつまり、6人くらいの討論会になってしもうた。あわわわわ。トイレにでも逃げまひょ。
"ところで十文字はどうなんだ?"
あー。僕はね、これについては中立なんだよな。
"いや!それはおかしい!この議論で中立なんてありえない!すべての議論では白か黒か分かれる!必ず人は意見を持つものだ!"
おやぁ。これはあかんなぁ。
へへへ、おいらはお腹空いたんで購買行ってくらぁ。
クソザコな私が露呈したのは別にその時に始まったことでもないし、どうでも良いんだけども、彼の言う"意見は必ず存在する"という言葉。
これがずっと私の中の宙をふわふわと、寄せる岸も見つからずただよっているんだねぇ。
たしかに、例の法案について僕は優秀な彼らに比べて知識がない。だから申す意見もないのだ。私はアホだから仕方ないね。
なんだけども、一体どのレベルの知識を持てば意見を許されるのだろうかと不思議に思う。
僕の思う意見というのは、その発言について責任を持つことができて、間違っていれば謝罪とか罰則すら待ち受けるものなんじゃないかと思う。
だから僕は意見みたいなことを言ったあと、必ず"わからんけども"をつけてしまう。責任能力ないからねー。
有名な話。
三流コメンテーターであればあるほど、恐れずズカズカと意見を申し、その道に精通すればするほど口ごもってしまう。なぜならその道における正解など存在しないし、仮に存在しても次の時には不正解にもなりうるから。
仮説は話せても、正解は話せない。だからふわふわと漂わせてしまう。
別にあたいが道のプロだから口ごもる、と言いたいわけじゃない。無知とプロは口ごもる運命にあるんじゃないかと思う。
だとすれば、プロになるためには不正解だとしても意見を申す訓練を積むべきではなかろうか!昼休みの猛者達は、間違っていたとしても私なんかより何歩も先に進んでいたのだ!
確かに中途半端であれば色々物申したくなる。僕の場合はテニスが顕著だ。あのプレイヤーはどうとか、このプレイヤーはダメだとか。
かっこわりぃぞ。でもその道を通らないと専門家は語れないというのだろうか。
なにごとも積極的に頑張ればなんでもいいじゃない。宇宙で考えればどうせ人間も大海を漂う小魚と同じようなもんだ。一個の発言にクヨクヨしても仕方ないじゃない!
がんばれよ!
解決できないから忘れられないのだろう。いや、すでにこの問題について解決はできるんだろうけど解決せずに保留するほうがいいと、もう一人の私が私に耳打ちをしてくる。わからんけどもね。