〈351.恐れること〉
9月14日。
腹痛。重い頭。働かない思考。
この感じ、私は知っている。今年ネパールで体験したやつとほぼ同じだ。いや、その下位互換か。
つまり恐れるほどじゃあない。
ちょうど出国してから読んでる本が、恐れることについて述べていた。恐れるためには条件があって、そして、適切に恐れなくてはならない。そんな感じ。
泥棒を恐れるのは正しいけど、ルパンみたいな予告犯行、窃盗のみの場合は、恐れは適切な感情じゃなく、怒りとか悲しみが正しいのだと。
家に飛行機が落ちてくることを恐れるのは、確かに適切な感情だけども、それが理由で不眠症になったり、一日中そのことで頭がいっぱいなのは、恐れの量が不適切なんだと。
恐れるためにはある程度未知数であるのが条件らしいです。未知なところを減らす、つまり知ることをすれば、恐れは減って、別の感情になるらしいです。
いま、私はお腹が痛い。トイレに何十回通ったろう。しかし、それほど恐れなくてもいいことを私は知っている。なぜならネパールの時の経験ならば、2週間くらい苦しめば自然治癒することを私は知っているからだ。
だから私は恐れない。この腹痛を。
いやしかしだ。ネパールの時経験した腹痛とは別の病気だったらどうしましょう。そうなると、未知のエリアなので恐れを抱くことになる。
何に対する恐れか。苦しみとか、最悪の場合の死である。
それなら僕は恐れない。
苦しむだけならこれまでになんべんも経験してるし、寄生虫と仲良く暮らしたこともある。耐えられる。よっちゃんだ。
死ぬ?いや、それはない。なぜなら、大学院の授業で海外で死ぬ病の特徴は勉強したからだ。そのどれにもいまのところ該当していない。ならば死なない。
ということで、知識というのは不安を和らげる最善の薬な訳です。いっぱい知れば、未知なことは少なくなって、対処法を用意できる。対処法が用意できなくても、恐れるべき根拠を打破してくれる。
なのでいっぱい勉強しましょう。
さっきの、今読んでる本っていうのはちょっと前話題だった、死について哲学する本なのです。別にいま、死んでもいいとは微塵も思ってないし、死にたかないんだけども、やっぱり死ぬことをちゃんと考えてみると、死ぬことを適切に恐れることができるし、そんでもってどうやって生きようか、真面目に考えられるような気がしまして。
とにかく、元気に日本に帰れるように休みましょう。