ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈361.もやもやノート〉

9月24日。

 

若干消化しきれずモヤモヤが残ってしまったので、ここで吐き出しておきたい。

すこし強い表現があるけども僕の本心ではないのでお許しください。

 

 

セネガルの首都ダカールとはいえ、この2週間ちょいで欧米人はちょろっと、アジア人はほんの少し見かけるだけだ。中東系もいるっちゃあいるけども、ほぼすべてがセネガルの人か隣国とかからやってきた人、アフリカ人とまとめていいのだろうか、そういう人たちだ。

 

今泊まっているゲストハウス周辺の人たちは日本人慣れしているから特に見られたりすることはない。

だけども、ちょっと小道に入ったりすると、主に20代以下の、日本だったら学生身分の小学生から高校生くらいの人たち。この人たちが、集団になってチラチラ見て、通り過ぎるとケタケタと笑ってくる。別にどうこうされるわけではないんだけども。

 

 

 

今日は日本人の大学生の人と出かける用事があって、小道を3人で通った。まあ案の定、ケタケタと笑われる。すると後ろを歩く2人が不満を漏らしていた。

"なにもしてないのに笑うってなんだよ。一種の人種差別じゃないの。"

"面と向かって言ってこないのもムカつく。"

 

僕は俯いて、歩みを速くした。さっさとこの小道を抜けたいのと、後ろの2人の話がもやもやしてくるから。

 

そりゃあね、僕だっていい気はしない。

なにかミスをして笑われるならまだ論理的に説明ができる。でも僕たちはただ歩いているだけだ。マイノリティとして。

 

でも。僕らは人権教育とかそういうのがちっちゃい頃から学校であるし、儒教的な他人を大切にみたいな文化がある程度浸透してて、人を笑ったら先生とか親に怒られる。それがあたりまえで過ごして学生をやらせてもらってる。僕が恵まれているだけかもしれないが。

だが、小道で僕を笑ってくる子たちはどうだろう。学校は義務教育だけどもドロップアウトも少なくないとか聞いたことがある。学校では教員が物理的に鞭を振ってくるとか。

 

人権がどうだとか、そういう議論も必要だけどもとりあえず置いといて、日本人的感覚で言えば"かわいそうな学校"に通っている子が多く、"かわいそうな人たち"に思えてしまう。

 

 

もやもやその1。

かわいそうだと思うことは良いことなのか。適切な価値観なのか。一種差別ではないか。

 

もやもやその2。

笑われて嫌だと思うのは論理的なのか。

大人ならば寛容に流すのが適切ではないか。

 

もやもやその3。

"この子たちに"笑われて嫌だと思うのは論理的なのか。(「笑われたら不快だということを想像できてない」と想定したらあきらめるべきか。この想定も適切なのか。)

 

もやもやその4。

嫌だとしたら、どう対応を取るのが適切なのか。そもそも対応を取るべきなのか。

 

 

 

僕が開発教育の道を院生になってから歩みきれないのは、この問題に適切な解答が見つけられなかったから。

文化相対主義的にみれば、それもまた彼らの文化だとして認めるのが正しいだろう。我々は文化外の者だから、関与するのは適切でない。

開発の観点からみれば、無知の子を親は啓蒙しなければならないように、"進んだ人"が教え導くのが正しいのだろう。これが植民地主義に遠くないのは想像できるのだけども。

 

 

どちらも僕はしっくりこない。

僕が大人になればいいだけなのかもだけども。

僕の知識が浅いだけなんだけども。きっとだれか研究者が中庸の理論を展開しているんだろう。

 

教えてください。