ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

MENU

〈371."わかる"議論〉

10月4日。

 

セネガルは乾季になった。乾季という文字をみると、僕はどうしてもカラッカラに乾いていて、砂嵐が時々起きて。そういう絵に描いたような砂の街を思い浮かべてしまう。

思い浮かべてしまう、と言う通り現実は当然違う。ただ雨が降らなくなって、若干暑くて。それくらい。日本に比べて湿気がないのはもともとだったので、乾季といってもただ雨が降らなくなっただけだ。1ヶ月の僕にはそう感じるだけなのかもしれないけども。

 

なににおいても、前提知識は大事なんだけど、それがなんのフィルターを通して伝わっているか、これを考えるのが大事なんだろうなと思うわけです。

 

例えば。"車で一時間はかかる"と言われたらどれくらいを想像するだろう。40kmくらい?

ダカールに来てみてそんなことないなと思った。この1時間のうち、渋滞にかかる時間が30分。つまり実際は20kmとか15kmくらいの距離でも1時間かかる、と表現することもある。日本だったら30分かからないくらいだと思う。だって渋滞がない前提だから。

 

この前提というのは言及されないから上手いこと利用されることもある。

例を考えてみる。

"とある男の子は、砂嵐の起こる道中で車でも3日はかかる遠いところに妹が送られてしまった"

と言ったとしよう。

これをそのまま受け取れば、北海道から沖縄より遠いかもしれない、しかも砂嵐が起きるから歩いていくことなんかもちろん不可能だし、車でも砂嵐の中で動かなくなれば死んでしまうかもしれない。もしかするとこの兄弟は生きてるうちに会うことはできないのでは…と悲劇的に考えてしまう。

 

たしかに現実にこの可能性はありうる。

だけども前提によっては、実際は渋滞が激しいだけで、日本なら半日くらいで行ける距離、群馬から千葉くらいかもしれない。その間の道に信号がなくて、高速道路がなくて、渋滞が頻発するのが原因で3日かもしれない。

いや、もしくは、車がない前提まで落として、タクシーをつかまえるまでの時間とか、バス停でのんびりアイスを食べる時間も含めての3日かもしれない。

砂嵐が起こるのは実際には3年に一度程度かもしれない。そのたまたまのパーセンテージの中で車を動かさずに3日待つだけのことかもしれない。

 

ここまで考えてみると、最初のイメージ今生の別れとは異なり、その気になれば一応歩いて行けるかもしれない、そこまで頑張らなくてもバスを乗り継げば2日くらいでのんびりつくかもしれない。それくらい軽いものになる。

 

これはあくまで僕の脳内の例だけど、実際にアフリカを題材にしたテレビ番組ではこういう情報操作はちょくちょく起こりうる。なかなかアフリカを経験した人は他の地域に比べて少ないし、そもそもそのデータの信憑性を疑う人はいないから。そうやってつくられる悲劇はたしかにある。

 

だから、自分で経験するというのが一番手っ取り早い。自分に関係する情報であればちゃんと情報源を疑ってみて、信用に足る情報源で正確さを確認する。

情報の海の波を適切に見極め、その波に乗れる人。情報社会のサーファーじゃい!

 

 

そして大事なのは、こういう僕の情報ですら、僕の身の周りで起きたことだけを、しかもかい摘んで書き起こしているだけだということ。セネガルで生活をしている、とはいえ所詮まだ1ヶ月だし、ダカールを出ていない。ダカールの中でも限られた中でしか生活の軸を置いてない。そしてセネガルについて勉強を始めたのも今年になってから。

こんな程度しか知らない者のなにが信頼に足りる情報なのか。

 

今日、研究の先輩とそんな話をした。研究者である限り、その事実は忘れてはいけないと。目に見えたことは大事な情報として取っておくべきだし、聞いた情報も大切にノートに刻む必要はある。だけども、それを一般論だとするのは浅はかだと。なんでもすぐに主語の分母を増やす人は怪しいし、研究としても信頼はされないぞ。

 

メディアがどうとかは僕にはいえないけども、確かに分母を大きくする人はあんまり信じるべきでないと思う。

"人間って…"

"男って…"

"日本人って…"

 

人間のなにを知っているのか。男のなにを知っているのか。日本人のなにをわかっているのか。

ついつい僕もよく使う表現ではある。こういうタイプの人間はこういう感じだろ、みたいな。本当は良くない。例外はどこにでも存在するし、なにより動物は同個体は存在しないんだから。楽しちゃうよね。

あ、もしかするとこれも分母を大きくしているかもしれない。

 

 

なにはともあれ、情報リテラシーは難しいね。気をつけたいねってことだ。

セネガルのことをわかったつもりになるのは当然早すぎるし、永遠に分かる日は来ないんだと思う。

来るのは、わかったようにな気分になる日か、わかるためのミクロなピースを得た日のどちらかなんだね。

 

分析することは大事で絶対に必要なことだ。その結果一定の方程式を得ることができるかもしれないし、黄金律みたいなのを得られるかもしれない。

でもそれを神のように崇めるのは間違いなんだろうな。それは情報であり、主体ではないんだと。"わかる"っていう状態は、本当はわかってないことが多いんだと思いました。

自戒を込めて。謙虚にね。