〈405.アイデンティティと計画〉
11月7日。
本来なら今頃村にいるはずだった。予定の変更なんてしょっちゅうあるし、仕方ねぇや。おとなしくもう一日ダカールでおとなしくすることにした。
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この変更はどうしようもないんだけども、イライラともいかないくらいの、モヤモヤが残る。
予定はだいぶ前に組んでて、それ通りに進まないということ。予定変更によって細かく立てた1日の上限金額が前後すること。そして時間の使い方を変えること。やれることができない。
こういう大きな一つの変更は、細かいいろんな変更も伴う。それがストレスなのだ。
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数日前にアイデンティティの話になったことがある。僕という人間はどうやって規定されるのか。
アイデンティティっていうのがなんなのか定義する必要があるけども。とりあえず今回はWikipediaに頼ります。
"アイデンティティとは自己と同一化している要素の事である。"
自己と同一化している要素とな。
バナナのアイデンティティは黄色とか、身とかっていう認識でとりあえずよろしかろう。
しかしだ。このアイデンティティってのはどうやって見つけるのか。それが面白くて、比較の中で生まれるんだという話になりました。
バナナを黄色だと認識するためには他の色がなくてはいけない。りんごとか他果物すべてが黄色かったら、わざわざバナナが黄色いとは言わないでしょうね。
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自分という人間は他人と比較されて認識される。自分という人間は、むしろ他人が規定している。そういうことに落ち着きました。
僕が僕であるためには、まわりの人があーだこーだと行動しているのをみて、またはその影響を受けて、自分はこうだと決められる。
自分の予定ってやつも、自分が決めているようで、まわりに決められていることが多いんだなあと思いまして。
今日のドタキャンならぬドタ延期は典型的にその例だけど、なにごとも計画とか予定とかはまわりと比べて決めてるところ、多いんだろうな。
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だから、自分の計画が変わるってのはしょっちゅうあっても不思議じゃない。むしろ変わり続けることすらあるんだろう。
自己決定感がないと、それがストレスになる。
自分でちゃんと計画を立てようねっていうのと、計画変わっても諦めてやれることやればいいや程度にヤワラカ計画を立てようねってことか。
メタモンになろうよ。
そういやメタモンのアイデンティティってなんだろうな。他人になれることが自分だっていうのは哲学だな。
明日以降、もしかしたら更新しなくなるかもしれないです。もしかしたら更新できるかもしれないです。
村なので。