11月10日。
持ってきた研究書を読んでいた。デュルケムだかビゴツキーだか知らないが、難しい言葉がズラズラと並んでいて、なに一つ理解できない。いままでは、わからないことはそのままにとりあえず読み通すことにしていた。結果としてはなにも頭に残らない。蓄積しない。
そして今日。その壁を乗り越えようと重い腰を上げてみた。
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先日先輩が教えてくれた研究書の読み方。とりあえず固有名詞をメモってみる。これに徹することにした。
例えば名前。例えば概念。知らないことばかりなので2ページ読むだけで15分はかかる。そして全てが理解できてるわけでもない。
だが、流し読みより蓄積ができる。知識としてだけでなく、メモとしても蓄積ができる。
本来だったらこういう研究書の読み方は学部で学ぶべきなんだろう。残念ながら学んだのかもしれないけどもサボっていたり、ごまかしながらやっていたので、その方法論すら蓄積されなかった。なにより講義で教えられていたとしても、こういう方法論を語られるだけだと僕にはダメなようだ。先輩がやっていることをそっくりそのままパクることからスタートする。これがこれまでの学び方だし。
ようやくここに来て研究の始め方が分かった気がする。
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長い時間をかけて概念を一通り理解してみると、フィールドワークの仕方も分かった気がする。読んだ研究書がフィールドワークでの発見を概念化することについての話だったおかげで。
ちょうど村にいるので、見慣れないことばかりしている。フィールドワークの練習としてはもってこいだ。
ということで、臼と杵を使って葉っぱをすりつぶして飲み物を作っているおばちゃんの隣で座り込んでみた。
さっきまで仲良くしていたおばちゃん。なんだけども。
個人への興味でなく、概念や実践に対する興味に変わっていくのを感じた。現実を見ているけども、同時にそれを遠くから見つめる自分がいる。おばちゃん個人への興味だったさっきまでと違って、悪く言えば動物園の檻の中の動物を眺めるような、そんな気分だった。
現実を概念として見始めたんだと思う。
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この思考回路は気持ち悪い。だけども、研究している感覚はある。
"日常として存在している臼と杵を用いて、現地の知識を用いて、現地の飲み物を作るのはいわゆる在来知と呼ばれるもの"(例なので不正確)
この理解に至るのは、日常のモードと研究のモードでスピードが違う。
というか日常のモードではそこまで分析してやろうとならない。概念として見ずに終わってしまう。「おばちゃんなんかおいしい飲みもん作ってたな。」思い出でおわりだ。
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研究のモードに入る方法はなんとなく理解した。個人を見るのではなく、その後ろにある壮大な物語を読み解こうとすればいいんだろう?
だが、このモードを利用すると、社会的関係は希薄になる気がする。
結局のところ使い分けが必要なんだろう。
重い腰を上げたはずなんだけど、そのままプカプカと宙に浮かんでしまったかのような。
そんな気分でござんした。