〈410.Bëgg naa xaris!!!!!〉
11月12日。
誰がこの細々とした毎日の更新を見るか。
それより、後で読み返して笑っちゃうような文章を書く方を大事にしたいよ。そうじゃないとやってられないさ。
それが楽して手に入れやすい幸せな気がするの。僕は見ているよ。
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平日。ようやく村の普段を見ることができた。とはいえ、昼時はめっちゃぐだってするんだね。
そして普段の学校を見ることもできた。今日はそれについてメモしておこう。
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結論からいえば。
全然進まん。そして授業クソ長くて明確な区切りがない。
朝8時から授業で、11時までほぼぶっ通し。30分休憩して、11時40分くらいから13時までぶっ通し。午後も15時から17時まで2時間ぶっ通し。
小学校なのよ。そりゃ大学生でも集中できないんだから、6歳7歳の子が大人しくできるわけないじゃない。
とはいえ、ずっと緊張感があるわけでなく、むしろずっと緊張感がない。そして時々、突然にして教科が変わる。それが変わる瞬間が僕にはわからない。
例えば筆算の授業。29+1の説明で30分が終わる2年生。練習問題を解く時間をつくったほうがいいのでは?そう思ってたらフランス語で挨拶を始めていたよ。算数30分、仏語1時間、校長先生に呼び出されて教員がいない時間30分の2時間を経験しました。
僕が中学校に教育実習でお邪魔させてもらったときは、ひたすら時間を気にし続け、生徒の興味を持たせ続けることが永遠の課題だった。時間節約のため板書はせず、プリントを用意したり、黒板に貼り付けられるよう模造紙を用意したり。とにかく工夫して生徒を飽きさせるな!何十回も言われて、最後の最後まで解決できなかったなぁ。
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こういう日本の感覚のまま、こちらの学校を覗いてみると、なんとまあ開発されるべき場なんだろうと思う場合もあるだろう。初めてケニアの田舎の学校に訪れた時、僕はそう思ってしまった。
でも。
なんで時間にルーズなのはだめなの?
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例えば答えとして、将来時間にルーズな人間になってしまう、そしたら仕事に適応できないし、幸せでなくなってしまう!というのがある。
ところがそこにある背景として、勤勉であることが徳であるとする感覚、幸せになれるという暗黙の了解が必要だ。
まず、それは徳であったとしても、幸であるのか考えてみるべきだろう。
仮に幸であると結論づけられたとして、学校でそうあるべきなのはどうしてだ?
勤勉になればテストでいい点数が取れるな。いい点数が取れたら良い学校に進学できるな。進学できたら知識の幅が広がるな。知識が増えたらビジネスチャンスが広がるな。
それ以外にも、学校には隠されたカリキュラムとして、時間を守る人間に育てることがあるとか。時間を守れれば信頼されて仕事も舞い込んでくるかもね。
僕の小さくて乏しい頭では、どうしても経済と勤勉のつながりが切り離せない。
勤勉であるべきなのは、信頼の獲得とかそういう人間関係の話もあると思う。でもそれも結局、勤勉が徳だという共有感覚が必要だろうな。それはただの一部の人の共有感覚であり、真理じゃあないんだな。
(決して"怠惰を徳だとする文化がある"と言いたいわけじゃない。勤勉の解釈が文化によって違うだけ。そこに優劣はないと僕は思うよ。)
僕を村に誘ってくれた、若干僕を騙した男もそう言っていた。"俺が金が欲しい(Bëgg naa xaris ブグナハリス)。金があれば幸せになれる。一生懸命働いて、真面目な奴が金を手に入れる。"
真面目ねぇ。笑っちゃうぜ!
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"お金だけが幸せではないけど、お金があるとより幸せになれる。"
なにかの漫画だか本だかで見たことがある一文だ。確かに世界中どこでもそうなんだろうな。無一文で幸せだと心底思える人間はごく僅かな世界なんじゃないかしら。
そりゃ金は欲しいやな!毎日白米とステーキを腹一杯食えたらそりゃあ幸せだぜ!
なにが嬉しくて30円のフランスパンを20円のチョコを塗りたくって水で流し込む毎日を過ごすのよ。
ここらへんを考えていたのがマルクスの資本論なんだろう。帰国したら読むぞ。いま必要なのはそういう古典な気がする。挫折経験あるけども。
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だからと言って、日本の学校が悪くてセネガルの学校みたいなフリーな感じが良いとも言わないよ。どちらも改善されるべき点は多数あるよ。完璧なんてないもの。
どんな学校なら完璧に近いんだろうな。そもそも学校っていう制度から考えてみる必要があるかもね。
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夜は寒い。日本の秋に匹敵するだろう。紅葉は見られなかったけど、秋をなんとなく感じることはできた気がする。
寒い夜に謎の音楽と一緒に配られるアタヤと木炭の匂いはどこまでも心地よい。空は澄んでいて月は今夜も美しい。
これも一つ幸せです。