〈448.芸を修めたい話〉
自分としては出来のいい文章がかけた。短時間の割に結構しっかり内容あるし、展開もそこそこ良いと思う。少なくとも僕は読んで楽しい内容が書けた。
ただ、審査される文章である。僕の一喜一憂は関係のない。
いままでもそういうことはあったし、たぶんこれからもそういうことはたくさんあるだろう。
大事なのは僕じゃない。第三者の評価であり、結果だ。
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僕は今は文章でそういうコトと直面しているけど、当然文章のコンテストだけじゃない。
絵も、音楽も、漫才も。世の中で「芸」って言われるのは大抵そうだ。
げい【芸】
1 学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。「芸は一生」
2 人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など。「猿に芸を仕込む」
デジタル大辞泉より。
芸がつかなくても、その人特有の、身に付けた能力っていうのは、誰かに評価されてようやく一人前ってことだ。仕事とかもそうかもしれない。「特別」になるためには、自己満足じゃあダメなんだね。
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そりゃあ賞状でも貰えたらうれしいサ。金だってもらえるし、名誉だってもらえる。自慢もできるぞ。「特別になる」ってことはそういうことなんだろう。
しかしだよ。僕はおそらくそこにたどり着くのはかなり先だろう。そうなると、どんどんモチベーションが下がるのが実態だ。
そんな時は自分がやりたいことやっちゃえよ。
そういう内容のことを、昨日の講演会では聞いたんだ。
もちろん、面白いなと、第三者に評価を受けるためには、第三者が喜ぶような、寄り添ったことをしなきゃいけない。文章ならば、新しい知識を含めるために、ひたすらに調べ尽くすという行為。
でもそれだけだとしんどくなるし。自分を殺してなにがいいか。ということで、自分が読んで楽しい文章にしなさいな。そういうことみたい。
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それともう一つ。
自分が好きなことをする、というのは大事だけど、「特別」になるための修行として、評価されるために頑張った場合、なにかいいことはないのか。
今回のコンテストのために文章を書いた時、僕は一つの記憶を思い出して文章化したんだけども。そうしてみると、記憶が更新される。
これはいいことだ。たぶん他の分野でもそうなんじゃないかしら。「特別」に結果としてなれなかったとして、その経験は自分の中に残る。それは社会としては特別じゃなくても、自分の中では「特別」として残ってくれるんじゃないかと。
そう思っておけば、多少気が楽になるってコトサ!いつか誰かの「特別」にはなれるサ!
記録より記憶に残るってネ!