ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈468.なにゆえもがきいきるのか(2)〉

今日もまだ議論の本題には入れない。

本題が難しいので外から埋めていく作戦に出る。

 

 

「幸せ」に「生き」たい。(a)

「生きる」のには「金」がかかる。(a→b)

「金」を得るには「仕事」をする必要がある。(b→c)

「仕事」が「幸せ」なら「生きる」のも「幸せ」なんじゃないか。((c=幸)≦a)

 

昨日の前提はこれだった。

僕らの人生ですぐに向き合うことになる仕事。そしてその仕事が一日生きるうえで多くを占めることになる。その仕事が幸せであれば、人生の多くが幸せだと同義なんじゃないか。そういう議論をしていこうとしているんだ。

 

 

ちょっとここで置いておく議論をメモしておく。

①まず「金があれば幸せなのか」というところ。

昨日は生きるために金が必要だとした。けど、どれくらいあれば幸せなのか。そもそも金がなくても幸せにはなれるんじゃないか。そういう考えも僕の中にある。これを考えるうえでの素材として次の言葉もセットにしておく。

「お金じゃ愛は買えないけれど、お金があった方が愛が潤います。」高橋留美子さんの「めぞん一刻」という漫画のセリフらしい。漫画をまだ読んでないので前後関係がつかめないけど、忘れられない言葉です。めぞん一刻を読んだらこの議論をしてみましょう。

 

②ここでもう一つ議論すべき点が生まれてしまいました。「愛と幸せの関係性とは」これもまた別の機会にじっくり考えていこうと思うの。

 

③次に「仕事と人生は直結するのか」これも問題だ。

世の中には仕事をせずに生きる人もいる。そもそも仕事とはなにかという定義も必要だ。これは今回考えたい「仕事と幸せについて」の議論では前提として置いている。なので、この前提が崩壊、つまり「仕事と人生は直結しないし、幸せと仕事も関係ない」という結論に至ったら今回の議論は虚無に帰することにする。

でもいま就活しようとしている僕は「幸せと人生と仕事は何らかの関係性がある」と仮定して話を進めておこう。

 

④そして一番の課題「幸せとはなにか」「どの状態、どれのことを指して幸せとするか」つまり「幸せの定義」。これは永遠の課題かもしれない。幸せって人によって違うとかいうじゃない。

 

⑤これを考えるためにはこっちも考えなくちゃいけない。「幸せの必要性」。なんで幸せになる必要があるのか。理由なしに幸せが絶対真理だというのは、強大な悪が後ろにあるような気がする。ちゃんとそこんところ言葉にできたら「僕は幸せになりたい」といえるようになると感じる。いまは漠然と「幸せになりたい」と思うだけだが。

 

 

といういずれも大きな課題5つを置いといて、「仕事と幸せの関係性」を考えていこうというのだ。5つとも深く絡み合っていると思うから、仮に一つが明らかになっても別の課題を明らかにしようとしたらまた変わる、なんてことも起きるはずだ。

そうやって真実(仮にあるとして)ににじり寄っていこう。時間はまだまだあるはずだ。

 

 

そうだ。ひとつ言っておかなくちゃいけない。この話を進めていくうえで頼らないものが一つある。「神の力」だ。宗教に頼るところはなしでいこう。話の流れで言及することはあるけど、それを論拠にして展開しないようにしたい。人間の頭脳でどこまで迫れるのかを考えたいんだ。

とはいえ、どこから宗教でどこから非宗教なのかは明確に線引きできないのが現実だと思うんだけども。

 

ゆるくいこう。しょせん一般学生が考えるようなことだ。フィクションの一つとして、娯楽の一つとして考えてもらえればそれでいいや。

 

ということで明日から本題に入れるかしら。明日はわかんないや。未確定でいこう。

「仕事と幸せ」について。