ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈475.恐怖と死の関係考〉

恐怖って一体なにに対するものなんだろう。

死ぬこととか闇とか書いてみたけど、やっぱりわからない。具体的になんだ。

 

 

小さい頃に親に怒られたことは誰しもあるだろう。僕はでかくなったいまでも怒られるけども。

さて、小学生の時。親に怒られて怖かったという感情を抱いたことはあるだろうか。僕はある。親父だ。

滅多に怒らないふわふわした風とか旅人とかそういう様子の親父だが、数回怒られたことがある。反抗したとき、調子に乗っていたとき。

怒られたとき、親父への恐怖はなにに対する恐怖なのか。

安全が脅かされること?いや、親父は怒っても手をあげるような親ではない。それは小さいながらもわかってた。死とか痛みへの恐怖ではない。

なんだろう。

 

学校の先生に怒られた時は?

学年に一人はいるであろう鬼教師。その先生に怒られたときは間違いなく恐怖だった。一体なにがこわかったのか?これも親父と同じで身体的苦痛への恐怖ではない。断じて否。

 

なにがこわかったの?

親父の、先生の、叱るという行為のなにがこわかったの?

 

信頼を裏切る、とかそういう高次の話ではないと思う。もっと本能的な恐怖。主語は「私」の恐怖。

ヤンキーのそれとは違う。ヤンキーの恐怖は痛みとか生命を脅かすこと、安全欲求の阻害で恐怖を感じる。

 

 

話は変わるけど、昔母親と死ぬことへの恐怖の話をしたことがある。中学生くらいのとき、なぜ生きているのか不思議に思うようになる頃だ。

その時の母の回答はなかなかおもしろかった。

一人の女から一人の母親に変わったときに死ぬことへの恐怖は、主語が「私」から「こども」に変わった。私が死ぬことで育てる存在が欠如する、こどもの不幸への恐怖で死ぬことは恐怖だった。恐怖というより、嫌悪。

確かそういうことを言っていた。

これで考えれば、死ぬことへの恐怖は克服できる。子孫を残すことだと。自分の生写しのような、存在証明ができるなにかができたら恐怖は薄れると。

 

 

ほう。だとすると、先ほどの親に怒られた時の恐怖、先生に怒られた時の恐怖。これは存在証明の欠如か。

親の恐怖を存在証明で考えると。家族という組織からの排除、それに伴うアイデンティティの喪失。この恐怖だろうか。

先生の恐怖を存在証明で考えると。学校あるいはクラスルームからの排除、仲間からの排除。この恐怖か。

 

動物的な思考で言えば、群れからの排除は死を意味するだろう。狼のような鋭い牙も速い脚もない。猿とか人間とか、哺乳類は群れで社会を築くことで繁栄したんだろう?

 

遠回りしたけど、

怒られる→社会からの排除→死

ということで恐怖を感じるのだろうか。

 

恐怖の感情はなにかしら死と関わりがあるんだろうか。

 

これもまた面白い話だ。