〈521.黒歴史文章の共通点〉
3月2日。
一応ほぼ毎日書いているけれど、読むに耐える文章と後で読んで小っ恥ずかしい文章の違いがようやく見えてきた。
その文章の主人公が僕だった場合は面白くない。冷静に考えればいつでもそうだけど、過去の投稿を見返していたらようやく気づいた。
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どの文章も僕が書いているという事実と、主人公が僕になることは全く違う。
主人公は僕であるというのは、僕個人の話であり、他人にとっちゃどうでもいい話についてである。例えば自己分析なんかがそうだ。
僕は実はかっこいい人でした、だからどうした?
そういうこと。
自己分析をしていても面白い文章が世の中にはある。それはなんだ。
自己分析の結果の抽象度を上げて、私にも当てはまるかもしれないと考えさせる文章である。その文章の主人公は自己分析をした自分かもしれないが、読み手への配慮がある。
もちろんバーナム効果(星座占いとかで一般的なことを言ってまるで私個人を占ったかのように思わせるやつ)なのかもしれないけども。
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どの文章もそうだ。人様に見られる文章ってのは、その人との会話と同じだ。
"僕昨日カルボナーラ食べたんだよ!"
それがどうした。
"そのカルボナーラに牛肉が入っててね、それが意外と合うんだな。今度やってみて。"
なるほどな。
1個目発話で終わってたら、自分だけの世界。オチのない話と一緒だ。
2個目の発話があることで、相手も楽しめる話ができる。
この相手方への配慮ってのは、つまり社会化の精神とも考えることができるんじゃないかな。大人の階段登るってこと。
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話の根拠を明確にするってのもそう。
自分の曖昧な推測で話を展開する。これはひとつ面白い話ができるとは思うけど、相手方への配慮とか、話題の対象者への配慮がないケースがある。
愚痴ってのもこの配慮のないケースに陥ることが多いのでは。
〇〇さんはこんなことをしてたんだよ。〇〇さん、◇◇なのとしてるからこんなことになるんだ。
明らかな論理の飛躍があるけど、日常会話だと別に許されるような気がする。
悪かないんだけどさ。気をつけたいところだ。
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とはいえ僕もよく陥る現象である。
すぐ自分の話をするし、根拠のないデタラメばかり話をしてしまう。
この文章ですらそうなのかもしれません。
黒歴史な投稿を消してまわりたいけども、仕方ない。過去の自分を反面教師にするしかない。
相手に配慮して話をして、デタラメなんてないように。
結構難しいのよね。