〈578.最前線24時〉
4月28日。
体調、いうほど悪くないけど完全体でないのが厄介だ。
体温測ってもいつもどおり35℃後半の低体温。多少の頭痛は続くけども、飯も味がする。うまい。例の感染症ではないだろう。
なんでこう、すっきり晴れ渡るような感じではないんだろう。
平たく言えば、自粛疲れのひとつなんだろう。
なんで自粛すると疲れるんだ。
。
自粛という活動は、具体的になにしてるか、なにを制限されているか。
基本的には人と会うことを制限して、感染経路をシャットダウンしている。人と会うことを避けるということは、外出できないことを意味する。つまり引きこもり生活を余儀なくされてるわけだ。
これのなにが疲れるんだ。家にいるだけなら体を動かさなくてもいいし、余計なストレスもかからないだろう。
家にいると、情報源は携帯かパソコンあるいはテレビだ。ほかにあるとすれば電話とテレビ通話だ。これがストレス源になるかどうかはとりあえず置いておく。
情報源がなにもない状態で家に引きこもっていたらどうだ。なにもすべきこともなし、外から来る情報もなし。ただ、外に出ちゃダメだとと言われたら。
ドラゴンボールの精神と時の部屋みたいなものだ。これはとんでもなく苦痛だぞ。自分の生を確認できないんだもの。
だから、外からの刺激をもらって生を確認する。生を確認するというためには外と関わる必要がありそうだ。ストレスのあるなしにせよ、情報を受け取り、発信し、それを受診されたこと及びその反応を見て、自分の生を確認する。
外に投げたボールが返ってきたからこそ、自分が投げたことを確認できるわけだ。投げたボールが返ってこなかったら、自分が投げたことは誰が保証してくれるんだ?だれもいない。そのうち自分を疑うかもしれない。
僕は今、ボールを本当に投げたのか?
。
自粛疲れのひとつとしてこれがあるんだと思う。
いつもなら、会話とか態度とか相互行為を通して情報を収集し、それをもとに自分を再構成する。それがすんなりできない。テレビ通話とはいえ情報がかなり制限される。テレビやスマホの情報も、一人で仕入れてもしかたない。それを外の世界に打ち込んで、返ってくるからこそ意味がある。
自粛生活でも、返ってくるには返ってきてるけど、いままでの生活で築いてきた足場には届いていない。
テニスでいうところの、ちゃんとこちらは打ってあげたのに、ネット際にドロップショットを打たれたような気分だ。こちらが向こうに近づかなきゃいけない。普通のラリーはできない、ストレスだ。
。
自分という存在を確認するためには、究極的には自分の中で落ち着かせないといけないだろう。しかし、社会で生活を営むうえでは、相手からの反応によって自分を構成していく。
大方この考え方は、鏡に映った自我とそう大差ないと思う。クーリーの考え方だ。
わたしはまるで、ここまで社会がなくても成長できたかもしれないが、それはまったくもって間違いだ。親とか兄弟から始まり、友達や地域のおじさん、初対面の人とか。そうやって社会の輪を広げていき、その輪に応対する形で人格がつくられてきた。
その輪が突然切られたような、引きこもり生活だからこそ、突然の環境変化のストレスがでかいんだろう。そしてこれがいつまで続くかわからない。未知への恐怖も重なる。
こんな環境は、基本的には経験してこなかった。つまり、ぼくらは今、第二の誕生を経験してるんじゃないか。
社会から完全ではないにせよ途絶した環境下で長期間生活することを強いられている。
生まれ変わるチャンスなんじゃないか。
そうとさえ思えてくる。
未知の最前線に全人類が公平に立たされている。
話がデカくなりすぎた。やめにしよう。
。
戦闘力21日目
167(+5)
勉強+2
練習+2
その他+1