〈581.暖かくなってきて〉
5月が始まりましたけど、大丈夫でしょうか。
5月といえば五月病です。今年は外出を限られていたり、余計な不安が多い年になっちゃいましたが気楽に過ごしましょう。
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5月といえば、気温がどんどんあがる時期だと思います。僕の家にも蚊が現れたりして大変です。ヒートテックもようやく蔵に入れることができます。大好きな半袖の活躍です。いい季節だ。
今年はいつになく、外の変化に敏感なような気がします。というのも、変な話になるけども、外に出れないからなんでしょうな。
外に出る時間が限られているから、外に出ている間はどんなもんか例年以上に気にしていると思います。家の中にいても、そろそろ外はこんなもんかと想像してみたり、写真を見返したりして想うからなんでしょう。
皮肉なもんです。失ってから気づくってのは。
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失ってから気づくっていうのは、僕の中では納得感のある話だから不変の真理みたいに振りかざすわけですが、まったくもって真理ではないんでしょうな。そう、納得感がいく物語を僕の中で作り出せただけの話で。
つまり、失わずにも大切なことに気づくことはできるはず。
例えばこのまえだいぶ論争になっていた電気不必要論。僕はこの世に誕生してから今に至るまで電気がない中で生活したことが一度もない。たとえケニアの奥地でもセネガルの田舎でも、電化製品は充実してなくても、夜に光はあった。日本で計画停電やったときでさえも、あと数時間で電気はつくという前提があるからこそ生活ができた。
普段わざわざ電気に感謝することもなければ電力会社にお礼の手紙を書くこともない。だけども大切なんだなとふと思ってみるのは、なにか視点をかえる助けになるんじゃないかと思うわけです。
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一人暮らしであれば当然家族を想うだろうし、地元の友達なんてのもそうかもしれない。いや地元でなくても、いまの友達もきっとそうだ。数年もしてしまえば所属が変わってそうそう会わなくなる。場合によっては次に会うのは来世ということもあろう。
だが、日常にあるものはなかなかスポットライトが当たりにくい。ちょうど家の隣にある歴史建造物より、遠くの観光地のほうがありがたいような気がするのと同じだ。
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という話も結局は納得感がある作り話なだけで、真理ではないのです。
ちゃんと自分が納得いくように考えるほうが大事なんだろう。
僕にとってはいまの自粛生活っていうのは、人間の小ささを実感できた物語を作ることになった、というだけのことです。
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戦闘力24日目
189(+2)
勉強+2
明日はきっと頑張れるはずさ。