5月11日。
昼間外で用事があり外に出た。
もう初夏である。20℃をきっと超えていたろう。数分歩くだけで汗が噴き出てきた。
鴨川は豊かな緑で覆われていた。なんともまあ美しい景色だこと。今年は桜を見たような見てないようなまま春が終わってしまった。
僕はあと何回この景色を観れるだろうか。
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努力は報われるのは否定されるのが一般になりつつある。
解釈の変化としては、報われるまで続けられるのが努力だ、だったり頭を使った努力でないと報われない、など。
そのどれが正しいということはなく、同時にどれが間違っているということはない。目の前に石があるのと同じように、成否ではなく、有無というだけだ。
そういうことをデュルケムの本を読んで解釈した。この解釈も成否はなく僕の中でただ存在するだけである。
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しかし、考えがあるとしてもどれが我の中に浸透しているか、これは人によって違う。これを成否と取り違えたら紛争が起こるわけだ。
実際、僕の中には「報われるまで続けられるのが努力」という言説と、「頭を使った努力が報われる」という言説の両方がいる。
実際そうだと感じた。どんなに毎日毎日1000文字前後の文章を出そうとも、3時間フルで頭を使わされて文章を書かされた方がよっぽど上手くなった気がする。
頭をフルに回転させて、毎日毎日努力をしたらきっと素晴らしい文章家になるだろう。そんな未来が垣間見えた。
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しかし、そのどれが存在していて正しいかどうかの話があっても、結局イチロー努力論には敵わないと思う。
努力だと思って努力しているうちはまだまだ。努力だと思わなくなったときに、結果が出始める。
そんな話だったはず。
努力っていう言葉につきまとう無理してる感覚が振り払えたらきっと努力という言葉でも問題ないだろう。
社会が有している概念の一部を個人は借りて使用しているに過ぎない。努力という概念に「やらされるもの・無理するもの」を僕は強く引用してしまっている。
デュルケムの議論だとそういうことだろう。
その概念は固定されるものじゃない。個人と同じく変化していくもの。
きっと努力という概念も変わっていくんだろう。
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次鴨川を見るときは社会はどんなふうに映るだろう。
僕が見ている鴨川であり、鴨川が見つめる社会でもある。
少なくとも今日見たときは、人が多く鴨川に映るようになってきましたよ。
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戦闘力33日目
254(+15)
勉強+5
その他+10
今日はがんばったのでビールを飲んだ。苦いはずなのに美味しいと思うのは、そう解釈する社会に属しているからだろうか。個人の問題なのだろうか。