〈597.机の上の社会学的考察〉
5月17日。
下宿先には読むべき本が山のようにある。同じく読むべき論文が山のようにある。
みるのも嫌な大きさになっているが、そのひとつひとつは嫌いじゃない。むしろ好きだからこそ買ったり印刷したりした。
この、集まりとしては好きじゃないけど個人を見れば好きというのはどこにでもあると思う。
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地元のやつらとの同窓会。もちろん出席したいけど、同窓会している団体は好きになれない。
昔の友達を大事にしているという点は好きだけど、その場で行われる可能性が実に高い傷の舐め合いというのがある。あるいは過去の栄光を見てあの頃は良かったと武勇伝を語るかもしれない。
もちろん、顔を浮かべて個人個人として会話があればそれは嫌いじゃない。好きだ。だけども会話をしているうちに僕が何か別の何かに化けてもおそらく会話を続けるだろう。そうなったら僕である必要がない。それが嫌なんだ。
とはいえ、同窓会がなぜか開催されないから実体験ではなく似たような体験なだけだが。僕がハブられているだけかもしれない。
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サークルというのもそうだ。部員ひとりひとりを見ていけば好きだけど、サークルという顔の見えない団体になった途端、なんでもできるみたいな無責任な巨大な力を得る。それがどうも苦手だ。サークルの飲み会なんてまさにそうだ。話が楽しいのは3-5人かしら。それより増えたら僕は携帯を触り出すだろう。
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とまあ、団体になるダルさ、顔が見えなくなる現象が嫌いなんだけども、団体で顔が見えないから良くなることもあると思う。
それはきちんとその団体にアイデンティティを持った時だろう。つまりその団体に属せたときには、個人の顔というより集団としての概念に楽しさを見出すと思われる。
これはデュルケムが議論したことだろう。
彼の議論は宗教的活動だけど、それは宗教という言葉をとりはずせば集団の活動になるという大雑把な理解をした。
逆にいえば、サークルとか同窓会という場だけに存在できる宗教を信じることができたら、集団を楽しむのだろう。
なんというか、一種ゲーム理論に近いのかしら。キリギリスの哲学という本で出てきた話。
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木単体に僕は魅力を見出せないけど、森なら見出せる。雰囲気に飲まれる、つまり森の宗教に入信するような感覚だろうか。
話がややこしくなったのでやめておこう。
勉強がようやく楽しくなってきたので、好き語りすることでストレス発散するのだ。
夜中の4時半。ようやく熟睡できる。
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戦闘力38日目
318(+17)
勉強+8
練習+7
その他+2