5月18日。
論理的とか、客観的とか、そういうのがなんなのかよくわからなかった。
わかってはいたけども、腑に落ちないというか、頭で理解できても心で理解できないというか。そういう認識だ。
それを授業で先生が説明していた。
"私じゃなくてもそう考えらことができる。"
なるほど、私だけの価値づけ意味づけでなく、誰でも同じ思考回路を経ることができるのが、論理的ということか。
これはいいことを学んだ。
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理論というのは、論理的な思考の結果得られたものを体系化したものだ。いちいち論理的な思考を経ずともそれを理解できる用語のようなやつだ。
私が考えたことを誰にでも理解できるように言葉にする。
これはなんとも情熱的に必死で、そして人間らしいことだろう。
言葉を異にするだけで相互の理解は非常に難しい。しかし、言葉が同じでも、その意図することは、それぞれの体験があるため完全な一致はありえない。
それだとしても、伝えたいこと・教えたいことがあって、それをどうにか残そうとする。その結果が理論であり、論理的な説明だ。
理論家とか論理的思考が強いやつというのは、どうも頭でっかちの気難しいやつだと思っていたけど、その真実は違うらしい。むしろ、理解を得るために苦心した結果の情熱的で優しい人なのだ。
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勉強や研究というのもそういうことだ。
新しいことを見つけたり、考えたことをどうにか伝えたい。その熱意の末に論文が誕生する。
研究していると、なにか楽しさを感じることがある。それは、長い歴史の人々と同じことを考えている、という団体競技と同じ気持ちの高ぶりだろう。
同じアリーナにいる。同じチームにいる。
その興奮がある。
どうにかして伝えたい。そうなって遺してきた想いの破片が論文に、書籍に残されていく。
その破片を受け止め、我々も新しい破片を遺して逝く。
それが研究する、もっと落とし込めると学ぶという行動の人間性なんだろう。
そして、新しい理論や新しい論理を手に入れたとき、"私"という個人は融解し、集団の一部になる。
集合的沸騰。デュルケムはこの言葉で表した。
この無限に続くチームプレーに魅了され、集合に私は溶けていく。
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なぜ、勉強しなくちゃいけないのか。
究極的には勉強する必要はない。それは、なぜ甲子園の中継を見なくちゃいけないのか、なぜ部活に所属しなくちゃいけないのか、この謎に理由がないのと同じである。
しかし、同じ理由で楽しいからやるんだ。やりたいからやるんだ。
長い歴史というチームに、世界に属することはいろんな経験の先に美しさを感じる。
その世界に所属するためには、勉強という練習が必要なんだ。
そして、たぶん君がおもしろいと思うものは、すべてなにひとつ余すところなく、学びの現在における終着点になっている。そして君がおなじく、学びの歴史を繋げることができる。
なんとも、美しいことじゃないだろうか!
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戦闘力39日目
325(+7)
勉強+5
その他+2
論理的でない話になってしまった。時間をかけて論理的に説明できるようになりたい。