〈600.共闘感覚〉
5月20日。
僕は昔と変わらずずっとお金がない。なので本を買うにしても、そうとう思い入れがない限りは古本である。古本NGというひとの気がしれないぞ。
しかし、古本のあまり好きでない点でいえば、線が引かれていること、文字が書かれていることだ。集中力が切れる。
それに慣れてくると、今度はその線を引いた人はなにを思って線を引いたのか、なにをメモしようとしてたのか、そっちの物語を考えてしまう。
著者そっちのけになっちゃうのよ。
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古本を使い始めて5年6年といったところか。そこでひとつ、至った感覚。
前にこの本を手に取った人と共闘する感覚。
もちろんそれは、小難しい本だからこその感覚だろう。
お前はそこを大切だと思ったんだな?ならばそこを注意して読み進てやろう。おいまて、お前はここに線はひかないのか、ここがこの本だと大切と違うか?
一緒に読んでる仮想の人が現れてくる。この感覚はなかなか面白い。一人で読んでいるはずなのに、相互にコミュニケーションが成立しているような。
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しかしながら、ここまで書きながら思ったことがある。ここで戦ってるのは前の持ち主だけではない。著者がいる。3人で戦っている。
では、だれと?世界の謎とだ。
新品の本なら著者と二人三脚で世界の謎と戦う感覚だけども、古本ならば3人でパーティを組んで戦うことになる。
これが小説であれば、著者ではなく登場人物だ。もしかしたら自分が主人公として、仲間たちと戦うのかもしれない。
この共闘の感覚は、より楽しくなってくる!
待ってくれているような、そして心が通じているような。
なんだろう、ずっとこの感覚を待ち望んでいた気すらしてくる。
誰かと一緒に戦いたい。
同じゴールを目指して同じ事柄に挑みたい。
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しかし、この共闘の感覚は、敵が強くなければならない。強くするのは、著者が賢いことが必要なのだ。なぜなら敵を強いと思うのもすべて著者次第だから。
なるほど、著者って実に賢かったんだな。
いや、実はですよ、ひとの日記を読むのが好きでして、たぶんいろんな理由があるなかの一つが、この共闘感覚を得たいからな気がするな。同じ悩みの共有だったり、そんな悩みがあったのか、みたいな。それなら俺はこう考えようみたいな。
その結果の文章好きなような気がしてくる。
このホウチガも、いつかの未来の僕の知らない人たちの、平成の令和の時代を知るためのなにかを渡せるんじゃないか。あるいは、僕の人生との闘いをだれかが面白いと思ってくれるんじゃないか。
そうとさえ思えてくる。
つまりこの600の文章群は、オートエスノグラフィとして研究対象になり得るかもしれないな!
俺はしないけどもね。
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戦闘力41日目
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