〈604.もがき生きる選択をした〉
5月24日。
先日勉強する理由がしっくりきた話をした。そしてそのとき、美しいから勉強しなくちゃいけないんだ、というような内容だったと思われる。
しなくちゃいけないことの理由。
これに対して、友人が問いを立ててくれた。
「外からの圧力への抵抗ととれる文面。能動的な字面にならないのはなんでか。」
なにゆえもがき生きるのか、とかもその一つ。なるほどこの考えには至らなかった。
今日はこれを考えていこう。
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そもそも世の中には、絶対的にしなくちゃいけないことなんてない。そりゃそうだ。いわゆる「しなくちゃいけないこと」は社会的に責任を負った結果だったり、未来を考えたときにしておいた方がいいだろうとかだったり。そういうときの文句である。
それなのに僕はやたらめったら「しなくちゃいけない」という言葉を使う。
こういうときの理由はいままでの人生にあるもんだ。
遡ってみると、ぼんやりと出てくるものがある。
僕の人間性のうち、半数ぐらいは「外からの目」で構成されている。悲しいけどそうだ。誰々にこう思われる、誰々にこう思われてしまった。これを息を吸うようにしてしまう。もちろん、だからといって言葉や行動が改まるとは限らない。大抵の場合後悔で出来上がっている。
そもそもこうなった理由は単純明快で、そう育ったからだ。親だったり、コーチだったり、友人だったり。もちろん良い思い出はたくさんある。しかし悲しいかな、同程度に辛い思い出もある。そうした結果、穏便に済ますために「〇〇からみたら僕はこう見えるだろう」を考え続ける処世術を体得してしまった。
圧力への抵抗はこれが原因だろうな。
こんな自分が本当はしんどい生き方だと気づいている。だから抑圧への抵抗として、〇〇しなきゃいけないと思っている。
僕の圧力は周りの人の言葉であり、それを受けて自分がどう振る舞うか思考してしまう無意識である。それへの抵抗としてぼくが自分で考えているんです、を強調するんだろう。
しかしまあ、この強調をしている時点で他者評価の観点にしばられているんだが。皮肉なこったね。
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圧力とは違うが「ものごとへの理由を求める」の理由もある。
〇〇するのは"ぼく"が〇〇だから。これをつくりたがる。
究極的にはぼくが生きる理由を求めているんだろう。対比として死がつねにチラチラ見えるんだろう。
僕が早死かどうかではなく、まわりの人の死である。そこから、なぜまわりの人ではなく僕が生きているのか。これを正当化したいんだろう。
核には親友の死があり、それを取り巻くものとして、親戚の死や祖父母の死など。
彼彼女たちは、僕に何を伝えてくれたのだろうか。そうして、僕はどうやって生きたらいいのか。
自己肯定感が低い僕なので、生きてりゃOKとは言われても、なぜOKなのか知りたい。
それを自分自身では、理由を作り上げることで納得させようとしている。
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23歳になるまでに、ものがたりをつくる脳味噌になってしまったようだ。死が僕にくれる物語、学びが僕にくれる物語、部活が僕にくれる物語。そういう物語を見ていくことで、今生きている理由を明確にしたい。そういうことだ。
だがしかし、自分でつくった物語というのは非常に根拠に薄い。物事の一部分と一部分をつなぎ合わせて物語はつくられる。
「物語をつくる」というのは、言い換えれば「自分が納得いくように解釈する」ということだ。「思い込み」とも言える。
これはつまり、主体的じゃないな。まわりがこうしたからこうなった、という常に受け身なわけだ。
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解釈の弊害は大きい。しかし、美しい物語をつくるために苦心することもする。
物語をつくりがちな自分を認識しつつ、物語をつくり続けてしまう。それが僕が選んだ生き方なんだろう。
幸か不幸か、そんなカルマを背負っている今世です。これからも理由を求め、納得いったら物語で認識をする。そういう歩み方をするのだろう。
美しい物語を紡げたとき、僕はこの生き方をやめるだろうな。
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戦闘力45日目
377(+6)
勉強+3
運動+3
地道な日々です。