ホウチガブログ

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〈637.モブキャラ人生〉

6月26日。

 

ドラクエが好きだ。ドラクエが好きなんだけど、それを仮に僕が漫画やアニメで表現できるとなっても、それをするのはなかなか難しいと勝手に考えてたりする。というのも、モブの処遇について考えてしまうからだ。

 

 

モブキャラクターというやつの定義を確認しよう。そもそもmobという英単語があるらしい。英辞郎では、「群衆、民衆、暴徒、集団」などの説明がなされている。

モブキャラクターという言葉自体は和製英語らしいが「群衆のキャラクター」と直訳できる。名前もなければ顔の特徴もない。そういうキャラクターだ。ドラクエなんかじゃあ町民Aとかもあるし、モンスターもそうなる。ゲームの中じゃあ当然グラフィックはあれど個性を出すことは不可能だ。雑魚Aとして主人公たちに数秒で切り倒される。

 

どんなアニメでもゲームでもドラマでも映画でも。クリエイトされたものには大抵モブがいる。そしてそれらは主人公の特異性を明白にする仕事を終えると一瞬で舞台から降ろされる。

 

 

しかしながら、現実で考えてみると容易に理解できること。私と関わりがないような店員Aでさえもこれまでにハードな経験をしていたり、あるいはさらなる高みを目指していたりと、真のモブというのは存在しない。いま目の前に落ちているからのペットボトルさえ、僕の部屋に至るまでになかなか奇妙な運命を辿ってきたことだろう。

しかし、このペットボトルにスポットライトが当たることはないのと同じように、モブキャラというのは消費される。現実では消費されることはないが、主人公があなたの舞台から店員Aは二度と上がることはない。名前も知らなければ生い立ちも何も知らない。ペットボトルと何も変わらない。

 

 

無差別殺人というのが発生する時、たぶん加害者にとって被害者はモブでしかない。これと同じ気持ちで、ドラクエの雑魚というのをふと気になる瞬間がある。

私がコマンドを繰り出した末にワンパンで倒されたベロゴンにも、きっと親や兄弟もいたことだろう。仮にいなかったとしても、命をかけて主人公に立ち向かうだけの価値を見出す上司の存在がいる。しかし、わずか数秒後にはゴールドに変わり果て、さらに1秒後に主人公はその存在すら忘れられてしまう。

 

もっとわかりやすくすれば、水戸黄門の悪代官に仕える侍たちだ。侍として生きれるほど刀に努力し続けた末に、名をあげることなく助さんやら角さんやらに倒される。田舎に残してきたお袋になんて説明できるんだろうな。バガボンド読むとより一層考えてしまうよ。

 

 

究極的には仕方のないことだと割り切るしかない。

地球の人間という本があるとしたら、ヒトラーアインシュタインは必ず出てくるだろう。しかし、首相が載るかはなんとも微妙なラインだし、〇〇商事の社長さんですら出てくることがないのに平社員なんか出てくる文字すらないだろう。それこそモブとして21世紀のサラリーマンとしては出てこれるかもしれないが。人類史で見たら特別な存在の英雄やら反英雄なんてもんにはならない。

だから、作品という一つの世界でもモブとして切り倒されるキャラクターも仕方あるまい。

 

とはいえなんだかそれで済ませたくない気持ちもある。人類にとって特別な存在じゃなくても、誰かにとっては特別な存在だった。それを見落としたくない。

 

 

ということもあって、長時間ドラクエをやっているとなんだか悲しくなる瞬間がある。僕もきっとドラクエの中なら雑魚キャラの一人にすぎない。あるいは街の中で魔物の侵攻を恐れる村人Aだ。有用な情報を与えることすらできない。

小さい人にもちゃんとスポットライトが当たる瞬間がある。最近の作品を見ているとそういうのが好まれているような、そんな気がする瞬間もあるのです。

 

 

戦闘力78日目

608(+2)

勉強+1

その他+1

 

命の消費というのは、あんまり多用したくない表現だけど納得感も感じてしまった。命の消費をしたくないから、きちんと店員さんにも感謝をするし、だれにでも丁寧に接したい。命の消費をしたくないから、しつこくなんども墓参りをするのかしらね。