〈674.お作法〉
8月2日。
最近昔のネタ番組やバラエティ番組を見ることがある。日本一を決める某大会なんかは特にそうだけど、なんというか、ネタを見ても笑えないところがある。10年前にもおんなじ番組をみて大笑いしていたはずなんだけども。
それは今の時代の笑いと異なる笑いだからなのか、はたまたレベルが単純に上がってきているのか、同じようなネタがやり尽くされているから飽きがあるのか。なんなのかはわからないけど、最近の芸人さんのすごさがよくわかる。
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学部生のときにネタ作りをしたことがある。内輪盛り上がりの場だったので、しょーもない漫才だった。それでも、漫才を作る難しさをなんとなしに感じた。それから何本か趣味で作ってみたけど、書いてる時と読む時で温度差がすごい。こんなにもつまらなくなるのかと。
論文を書いて、大学院に入って、となると論文を書くことにもお作法、ルール、定石がたくさんあることを知った。そしてそれを知らないことは、その研究の舞台にも立ってない無知を周りに知らしめる恥の多いことだとも知った。若気の至りというやつだ。
きっとネタ作りにもあるのだろう。具体的な何かはないかもしれないけれど、きっと暗黙の了解で方程式ができているところもあるんだろう。
昔のネタがつまらないのは、そのお作法が変化しているからなのかしら。
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そのお作法、ルール、定石というのはなかなか得るのが難しい。本を読むことが一番早いけれど、体得するのは訳が違う。知っていることとできることは違う。
このできることを全て得るのはできない。ただ、知ることはそれよりずっと多くできるはず。誰かが苦難の先にようやく「できたこと」について、苦難の先にようやく文字化できた本を、僕たちは一瞬にして「知ること」ができる。
このいろんな分野のルールや定石、お作法を知ることで、その共通の普遍性を見出すことができるんじゃないか。
そしてその普遍性の先に、人間の不思議な特徴が見出せるんじゃないか。
抽象化されたものをさらに抽象化する。その先にいるのが僕たち人間であり、その社会なんじゃないか。
それを見つけてネタにできたら、きっと面白い話ができるんじゃないだろうかしら。
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戦闘力115日目
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人生のお作法なるものが見つけられたら、それはそれでどうなんだろうね。それが哲学なんだろうか。なんでもいいや、本を読もう。