ホウチガブログ

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〈677.弔い〉

8月5日。

 

そこには献花があった。

水やジュースのペットボトルもあった。アンパンマンのぬいぐるみも置かれていた。その一つ一つにお別れの言葉が書かれていた。

まだどれも汚れていない。つい最近の出来事だったのだろう。僕は目を伏せてその前を通った。

 

1ヶ月が経ち、その前をまた通ることになった。花の数は減った。アンパンマンも汚れが見えるようになってきたけども、梅雨を過ごしてこの汚れというのはきっと誰かが世話をしていたのだろう。新しいペットボトルも置かれていた。

 

 

1ヶ月前そこを通った後、僕はすぐに忘れた。別の用事にすぐに頭は占領された。今回もまた、すぐに消えそうな記憶だった。

だから書き残しをした。忘れるのは申し訳ない、というか忘れたくない。そう思った。

 

戦争が起こればたちまちその何百何千倍のそれが失われる。数が増えれば増えるほど、その顔は見えなくなってくる。でも、失われたそれに近しい人の悲しみは、そのすべてが重く悲しい。そりゃあ戦争が起きれば国中が重く悲しくなるのは当然か。

 

 

かつて心理学の先生と一瞬だけ話す機会があった。

悲しい記憶は悲しい記憶としてなにも変える必要はない、ただ、忘れてしまっても自分を責めてあげるな。

 

なんで、忘れると自責したくなるのだろう。

彼/彼女はもうこの喜びを感じることをできない、そのことを僕はもう忘れてしまったのかと。そうすることがなにに対して益になるのか。

命を賭して伝えてくれたことがあるような気がして、それを忘れるのは最大の裏切り者。それに似た感覚があるような気がする。

 

 

ダークツーリズムを勉強しているの、なにが"正しい"弔い方なのかわからなくなってくる。

悲しみの記憶を観光地の場の記憶とすることで、その教育的な価値は増すだろう。しかし、同時にその建前を使って別の意図が現れるようになることがしばしば。

その別の意図も絶対悪なわけがない。生きる人が生きるための戦略だもの。死人はなにも口出しできまいよ。

なのに、肯定しきれない、こう、もやもやするような。他人の不幸をおかずに飯をかっ喰らうような、そんなヒトデナシがチラつく。

 

 

僕はまた、目を伏せて前を通り過ぎる。僕が取るべき正しい行動は一体なんだろう。わかるまで同じ行動を繰り返すほかない。

 

 

戦闘力118日目

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