〈678.死ぬとか生きるとか〉
8月6日。
せっかくダークツーリズムの研究してるんだ。今日という日は大切に考えなくちゃならない。僕らはどう受け取れば良いんだ。この日を。
大切な日と考えるべきなのか、ただ365日あるうちの一つと考えるべきか、誰かの誕生日として誰かの幸せを喜ぶべきなのか。
昨日に引き続き、考えてみよう。
まとまりのない、散らかった話だ。
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死ぬということは、すぐそこにある表裏一体なもののはずなのに、どこか遠くにある。それでいて唐突に近づいてきて恐怖を感じさせたり、一種諦観をもつような気分にさせる。
血が繋がる人が死んだ時、いなくなることのさみしさをぼんやり理解できた。
親しい人が死んだ時、残された者が果たすべきなにかを与えられるようなそんな感覚を得た。
同い年が死んだ時、悲しさと同時に生きることの無意味さを感じた。
死んだ誰それが天から見て喜んでくれるように生きましょうとか、生きることはそもそも意味がないとか。そういう死の一面だけを捉えることは簡単だ。それを信じればそのほかの考えるポイントを考えなくて良くなるから。
意味を持たせると一面だけじゃない。ただ死がそうある、というだけじゃなくなる。
喜んでもらえるように生きるけど、実際には喜んでくれない。勝手に生きてる我々が虚無に感情を与えているだけだ。でも、そう考えるとすごく気持ちが楽になる。
僕一人が、あなた一人が生きることに大した意味はない。地球誕生から宇宙まで視野に入れると当然だ。だけど、僕があなたが死ぬと、どこかの心に負担がかかっている。悲しみかもしれないし、憤りかもしれないけど。微力ながらもどこかに力を加えることになる。
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戦争をどう評価するか。
これを明確に言葉にするのは難しい。別にいまの世の中は滅ぶべきだとか、そんなこと考えちゃいないよ。ただ、言うは易しなのだ。なんで反対するのか、僕はまだ考え足りていない。
ただ、一点、大切な人が理由もなく殺されるという、その一点だけを切り取って戦争というのならば許さない。そして、その大切な人という範囲については難しい。そりゃあ僕と親しくしてくれる人は間違いなく大切な人だ。でも、おんなじように誰かにとって大切な人で出来上がっているのが社会だろう。それなら死んでよし、な人なんているわけないじゃない。
そして平和を守るということは敵がいるということでもある。敵には敵の大切な人がいる。そこに正義がある。
やっぱり誰一人死んじゃあダメなんだよ。仲良くできなくても、敬意を払うことはできるでしょう。
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言うは易し。だけど、言わないことにははじまらない。
物事に対して評価する、意見するというのはそう簡単にしていいものじゃない。覚悟を持ってしなくちゃいけない。考え続けなきゃならない。
僕は今日という日を祈ることしかしない。できない。
そして考える。考えた先に答えがないだろうが、それでいい。
無意味な生きるとか死ぬとか、そんなもんないよ。
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戦闘力119日目
860(+3)
勉強+2
その他+1
こう考えるとダークツーリズムって結構難しいんだね。
「こうするべき」とかそういうのに逃げないように、中立を保って冷静に分析をする。死がそこにあるとブレないようにするのは難しい。