8月31日。
群馬最終日。今回の帰省は最初から最後まで楽しく過ごせた。悲しいこととか、嫌なこととか、そういうのなしに単純に小学生の夏休みみたいに。無邪気に過ごせた。すごくいい気分だ。
このなにものにも囚われない自由な感情を抱くのはしばらくないと思う。研究もそうだし、そのあとは就活だし、そしてそのあとは仕事。こうしているいまも完全に囚われるものがない自由というわけでもない。けどもこれからはもっと責任が出てくるだろうし、責任を持って生きれるような立場でありたい。
責任というのにちょっとした憧れがあるんだろうな。
。
高校生までは1日のスケジュールがほぼ決められていた。それが大学生になると急に自分で決めなくちゃならなくなる。そして社会人になると基本的にはまた縛られるようになる。でも高校生までの縛られ方とは違う。
本来であれば、自ら縛られにいくというか、志願して拘束されるかわりに対価を得られる。学生は社会から強要された拘束だけども、社会人は自分の責任で拘束される。少なくともいまはそういう認識をしている。
。
もちろん、社会人の生活がすべて自分の責任だとは思わない。上司からの拘束であったり、家族としての拘束だったり、いろんなところで拘束されるようになる。でも、その環境を用意したのは基本的には自分の意思であって、究極的には解放されても生活できる。フリーターとしてもギリギリではあれどしのぐことはできる。
でも、それよりも拘束を選ぶのはその対価を求めてのことだと思う。
僕はその対価として社会的組織に属したい、その組織の中で責任を負いたい、これを求めているんだと思う。もちろん、金や事柄も大事だけども、存在としてはそういう欲があっての就職活動になる。研究者を選ばないのはそういうことなんだろう。
。
しかしこれもなんとも青い考えだろうとも思う。きっと社会人の方から見たら、実態を知らない若者が夢を語っているに過ぎないと鼻で笑えてくると思う。
しかしながらこれがいまの限界だ。未知というのはそういうものだ。知って、やって、失敗してようやく身の丈を知るようになっているんだと思う。
その最初の知るというステージにすら立てていない。なので初めは風呂敷を広げることしかできない。そして数年後に恥ずかしく思って風呂敷を畳む。
。
群馬の無邪気な夏休みから話が飛んでしまったが、これはこれで大事だったし、これから迎える夏というのは別の意味で大事なものになる。
だから学祭の夏休みは羨ましいとよく聞くけども、結局すべて無い物ねだり、隣の芝は青いということで。
足下の緑を楽しむように心がけたいものですね。
。
戦闘力144日目
1014(+3)
その他+3
大人の方から始めてコメントをいただけたので、ぼんやりと考えておりました。
僕はいまはやく初老の男になりたいと思っているのは、そういう責任やらなんやらを乗り越えて達観した視界を手に入れたいからであります。しかし、いざ初老になってみると若い頃のパワーが欲しくなるんだろうとも想像してみます。
なので、初老になった自分への今のメッセージということで、40年後くらいに読み返してください。自分。