〈707.物語のメタモン〉
9月4日。
最近、インタビュー記事を作らせてもらっている。ぼくがインタビュアーとして話を聞き、そしてそれを記事にする。知り合いの方が僕が文章を書くのが好きだと知っていて声をかけてくださっただけの、小さな小さなプロジェクト。
でも、それと向き合うのはとても勉強になる。世界を見てそれを文字に変換することの難しさを改めて経験しているの。
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話をする人にとっての世界がある。僕はそれを聞いて、誰かが理解できるように文字化する。
この流れには、Aという世界があるとしたら、まず話し手が解釈している世界A'があり、それを聞いた聞き手の世界A"がある。そしてそれを文字起こしした世界A"'があり、記事の読み手が最終的にA""という世界になる。
つまり、人それぞれにとっての世界があって、固定化されて決定的な世界はない。
しかしそれをインタビュアーはできるかぎりフィルターを通さないようにするべきだと僕は考える。
というのも主人公は話し手であって、僕はメディアに過ぎない。カメラであって、写真家ではない。そう思っている。
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写真家になるには、その人自身が面白いことを理解されなくちゃならない。その人自身がおもしろいと理解されて初めて、名乗った上での写真の展覧会で人が来る。
ライターであれば、おもしろい文章を書く人だと理解されてようやくライターの仕事をしている誰それですと名乗ってよし。
つまり、人間先行ではなく作品が先行して人間を定義づける。
それでいうと僕はまだ作品ができてないので、ライターとしてしゃしゃり出てはいけない。
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たしかに世界は存在するけども、それをどう認識しているかは人によるので、認識される数だけ世界がある。
しかし、こうなってくると物語と実話の境界は非常に曖昧だ。物語はだれかが作ったフィクションだ。実話と言われるものも、実際に存在したモデルはあれどそれそのものではなく、語り手が認識した世界に過ぎないし、自分の都合がいいように解釈した残滓が語られているに過ぎない。
つまり、インタビューで語ってもらうのは、その人が作った物語だと思っている。だから、その物語をさらに僕が物語化するのを、まだ求められている段階じゃない。
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じゃあどうしたらいいのか。
おっしゃった言葉をそのまま文字化することか。最初はそう考えた。
だが、それじゃあインタビュー記事としてはダメらしい。そりゃそうだ。1時間の話を試しに文字起こししてみたらわかる。読むに耐えない。無駄話もあれば、イントネーションや間もある。それをすべて文字起こししたら、読み物としては最悪だ。研究としてはそれがいいんだろうけども。
つまりどう足掻こうと、話し手の物語を、読み物としての物語として再編集するのがインタビューライターの仕事らしい。
なるほど、再編集と考えれば悪くない。原作と漫画家が別の作品みたいなものだ。
そうとなればそういう覚悟の決め方をしよう。現実と物語の境界はあいまいなんだから!
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戦闘力148日目
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その他+5
僕が物語に執着するのはそういう理由かもしれない。絶対的な正解はないんだと言える根拠がここにしかないような気がするからだろう。
結局ぼくらはみんな、物語の登場人物みたいに、固定して決定的な何かではないんだ。その時その場所で形の変わるメタモンよ。