9月8日。
昨日の続き。
極道の映画やゲーム、漫画だと、組長や会長と言われる人の存在は絶対的だ。そういう親父のためなら命を張るのが構成員の役割だと描かれる。実際、ストーリーの中で真っ先に犠牲になるのは名前も与えられない構成員だ。文字通り親父のために命を張っている。
一方で、拷問にかけられるとその親父がどこにいるのかを他の組の人に白状してしまう構成員もいる。主人公やそのまわりの人間は、拷問にかけられても一切割らないので、その情の厚さに感動する。日本の作品は、そういう損得感情なしの義理人情に重きを置く作品が名作になる条件になると思う。
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しかし、あくまでフィクションかとも思う。実際に爪を剥がされたり、鼓膜やぶられたり、歯を抜かれたり、針刺されたり、とにかく死ぬことができない最大の苦痛を受けてみろよ。僕だったらなんだって言ってしまうよ。だって痛みは恐ろしい。死ぬのは恐ろしい。
実際、損得感情なしに人情だけでどこまで体を張れるんだろう。
実験するつもりは毛頭ないし、したくもないけども、命を張るって言うは易しだよね。
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幼いながら、命を張ってもらった記憶が一つある。おそらく幼稚園入ったころの話。
僕と姉を中にして両親が両端の、川の字に一本足したような形で僕が幼い頃は寝ていた。それくらい幼い時だからどこまで正しい記憶かはわからない。
ある朝、地震が起きた。小さい僕はとんでもなく大きい地震に思えた。実際にはまだ揺れてない。しっかりと聞き取れる地鳴りが聞こえていただけだった。それでも怖くて仕方なかった。
地鳴りがなって揺れ始めたとき、恐ろしくて恐ろしくて、泣きたかったけど泣かなかった。そんな時、母親が僕の上でひじとひざでテーブルのような形になった。同じような態勢を父親は姉の上で取った。
実際に物が落ちてきたら親は死ぬだろう。下にいる僕らが助かるかもわからない。それが正しい対処方法かもわからない。だけども、その両親の真顔が目の前にある時、安心感を覚えた。
実際は何も落ちてこないし、たいして長引かなかったからそんな大きな地震じゃなかったと思う。ただ、あのとき間違いなく両親は僕らのために命を張っていた。
「こどものためなら命を投げ捨てられるのが親だよ。」
母は時々そう言ってくれた。
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命を張れる男、父になりたいものだ。
極道映画のそこは本当にかっこいいと思う。信じるもののために命を賭すことができる。どんな苦痛も守るためなら耐えられる。
そういう意味でも、僕の両親は最高の両親だと思う。
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戦闘力152日目
1051(+5)
勉強+3
その他+2
筋を通すっていうのはそういうことなんだろう。大事なことについては白か黒か。全部を白黒決める必要はないけど、大事なこと一つは筋を通して貫きたいものよ。