ホウチガブログ

~方向性の違いでブログ始めることになりました。~

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〈715.価値の考察〉

9月12日。

 

今日は楽しいことがたくさんあった。迷うことなく幸せな日だったと言える。こういう幸せが永続するならぜひとも元気に長生きがしたいと思う。

 

 

幸せだったこと。

友人と共通の話題で盛り上がった。高校の現代文で習った「こころ」「羅生門」、星新一ショートショート、自転車遠征。

文字にしたら1秒もせずにここまで読み飛ばせる。しかし、その一つ一つがすごく時間がかかっている。

「こころ」や「羅生門」であれば、現代文の授業何回分つまり何十時間も費やしてようやく読解ができた。星新一の話も苦痛ではないがそれでも何時間もかけて読んできたうちのわずか数分が話題になる。今日のちょっとした自転車遠征も坂道をよっこらよっこらと、筋肉痛を感じながらようやくたどりついて不思議な景色を目にできた。

 

夜の寝る間際にちょろっと振り返って幸せだったと思える日は、それまでの何十、何百という時間を投資してようやく手に入れることができる。幸せっていうのは結構大変なものなのだ。

だからこそ、「価値がある」のかも。

 

 

価値というのを、なにかと交換するための指標、金銭で言う値段だと置き換えて考えていいかもしれない。

幸せの価値といえば、幸せを推し量るために他になにに置き換えることができるか。

命の価値といえば、命の大切さを理解するためにどんなものと換算できるか。

 

「何物にも替えがたい」という言葉で逃げずに考えてみよう。

 

今日の僕の幸せのために、何百時間も必要になった。例えとして、今日の幸せの価値は時間でいうと100時間、ということにしよう。24時間を幸せだったとするために、それより前の100時間が必要だった。そしてその100時間は苦労も多々ある。

そうまでして得たかった幸せなのか。

 

この問い自体に答えるのはさほど意味がないように思える。なぜなら、その100時間という投資は、今回に限らず僕が生きている限り有効だからだ。つまり、今日の幸せのためには100時間が必要だったけど、この100時間は結果として1000時間の幸せを作り出すことも可能なのだ。

 

そういう意味でも、若いうちの苦労は買ってでもしろ、ということは理解できる。

 

 

しかし、これにはある前提がある。「私はしばらく生きることになる」ということだ。この前提を考える必要もあるし、他の前提もある。「幸せのために苦労をする/生きる」。これもまた考えなくちゃいけない。幸せになりたいのは人間の本質だ、といっちゃあ話は終わりなんだが。そこに関しては思考停止してもよし、どう「よりよく生きるか」という問いを考える方が重要だと言えるかもしれない。

 

どれくらい生きるか、どのように生きるか。これを考えると、人を殺してはいけない理由にも近づけるかもしれない。

そのための材料、「幸せ」を得るために必要なこと・価値という言葉が意味するところを、これを今日は考えた。

 

次は実際に、どれくらい生きると考えるか、どのように生きるのか、について考える。そしてその先で待つ、人を殺してはいけない理由を考えたい。

 

 

戦闘力156日目

1080(+6)

勉強+1

運動+3

その他+2

 

簡単に手に入る幸せはあまり意味がない、というのもわからんでもない。苦労した方が、その先別のことにも応用できる。そういうことだろう?

しかし、簡単に手に入る幸せもまた、別の幸せのための材料にもなりうる。すべてのことには意味があるっていうことじゃないのよ?