ホウチガブログ

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〈717.一貫性への疑問〉

9月14日。

 

最近のテーマが生きるとか幸せとかその価値とか、若干重い。しかし飽きることなく今日も続けるぞ。

だが、今日は趣を変えて「どう生きるのがいいのか」について一石投じる話である。友人と勉強会をしていて得た思考である。

一貫性への疑問。

 

 

ちょっと前の投稿でも触れたけど、一貫性のある生き方とか、まっすぐ筋の通った生き方というのに憧れがある。物語で描かれる極道や武士のような人たちだ。大切なものを守るためなら命を張るという生き方。

つまり、一貫性のある生き方、と大きく括ることができる。

 

しかし、そもそも一貫性っていうのはどうやって判断できるんだろうか。

例えば、大多数の人間の幸福のために生きるんだ!という人間が差別の第一線で活躍しているとしよう。これには理由があって、少数の人たちをコケ落とすことで、大多数の人間は優位性を確保できるという信条から来るものだと主張する。

これは本人からしたら一貫性のある生き方だと主張できるけど、それが大多数の幸福に貢献しているかというと素直にうなずけないのが人間だろう。

人の不幸は蜜の味とかいうけども、それは長期的には不幸な味だと思うぞ。

 

 

さて、先ほどの例でいうと少数派に寄り添うようなスタンスを採ることにしよう。少数派の手助けをすることで、もしかすると大多数の人間の不評を買うことになるかもしれない。

だが、これだけの情報ならそれでも良いような気がしてくる。というのも実害を被る人間がこの話にはまだ出てきてないからだ。そしてむしろ少数派は幸せになるハシゴを得るチャンスをもらった。みんなハッピーじゃないか。

 

というように一貫した生き方というのは、なにも頭カチカチ君になれというわけじゃないらしい。むしろ、ケースバイケースでいろんな選択ができる方が幸せになれるように思える。

もちろん、使い方を自己保身にしてしまったら八方美人の骨川さんになってしまう。そうじゃなくて、そういういろんな場面における自分の想いに素直になる、そして異なる自分すら認めてあげられることが大事らしい。

異なる自分を一つの自分だと認識することが、狂気の反対である正気である条件らしいよ。

 

なんで狂気じゃダメなんだ、というと単純に狂気だと生きにくいからだと思う。生きにくいというのは社会で生活を送りにくいという生物学的弱点のことでもあり、同時に幸せでもないということだ。

いろんな自分を素直に認めましょう。そういうことを今日は学びました。

 

 

戦闘力158日目

1094(+8)

勉強+3

運動+3

その他+2

 

認識するっていうのは、他との違いを理解した瞬間にできることなんだと思う。境界がどこにあるのか。

自分の選択の一貫性のなさについて、そもそも境界を見出さないっていうのも正気のひとつだし、境界を見出したうえで認めてあげるという方法の両方があると思う。

 

一貫性がなくて良い。一貫できないことこそ人間らしい。しかし、選択の全てが一貫であることが憧れる理由じゃなくて、たぶん自分に素直な点をちゃんと貫きたいポイントなんだろうな。すべての欲望に従うっていうんじゃなくて、その存在を認めたうえでどうバランスをとっていくかみたいな。根本では譲らないところを設けるみたいな。

この一貫性についてももう少し掘っていく必要があるねぃ。